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「いまどきの34歳」続編!?

MM「いまどきの34歳」改訂版(?)と新規原稿を載せていきます!

当時の読者様方が見つけて読んでくれるかどうかはわかりませんが…(笑)。

and、日記みたいなものも入るかも!? (^^ゞ

 ちょっと暗い話題ですが……蒸発と聞いて、何を連想しますか? きっと、あまり良いイメージは無いと思います(自殺とか、富士の樹海とかバラバラ死体とか…じゃないですか?)。

 昔はそんなこと考えもせず生きていましたが(※若い頃からそんなことを考えていたら無気味だな)、最近ちょっと考える機会がありました。
 『蒸発願望というものは、誰にでもあるものなのか?』
 『どんな時に、人は蒸発したいと考えるのだろうか?』

 このところ(※MM連載当時)、自分の仕事(SOHO)の不調,不振や、あまりに多く次々と出てくる“新たな仕事の話”などに振り回されて、肉体的には別ですが、精神的,神経的にはかなりまいっています。ヨレヨレです。
 これらが全て無事に終焉に向かう、もしくは順調に行ってくれればそれに越したことはないのですが、どれもがこんがらがってきてしまい、つい先日『もうパニック寸前だ…!』と感じました。

 すると、ふとした時に「蒸発願望」という文字が浮かびました。
『もう何もかも捨てて逃げ出したい!!』という思いがチラリと頭の片隅をよぎったのです。

 それからよく考えてみたのですが、蒸発願望とか自殺願望を成就してしまうには、どちらも同じような決断をしなければならないという私なりの結論に達しました。
 どちらにしても、以下をクリアできなかったら、決して敢行不可能だと考えたのです。
 1.事後、家族や他人にかけるであろう迷惑を何も考えない
 2.自分の近・遠未来に関しての希望,願望の類を一切捨てる

 つまり、完全に感情や情というものを捨て切れなかったら、どちらも実行は到底不可能だと思うのです。
 ―――で、よくよく考えてみたら、それって伊達や酔狂ではできないことですよ、絶対に。

 以前、飛び込み自殺のニュースを聞いて、友人とこんな話をしたことがあります。
(私)『どうして朝の忙しい時間帯にわざわざ電車に飛び込むのかな? 普通、思い詰めたりするのは夜の間が多いんじゃない?』
(友人)『違うんだよ。ああいう人たちは“新たな1日が始まるのが恐い”んだよ。また辛い1日が始まることに耐えられなくて死を選ぶんだよ』

 この友人の意見に『なるほど!』と思わず本当に膝を叩いてしまいました。
 比較的、悩みモードに入りやすい夜間を越えて、一般的には「爽やかな朝」などと例えられる朝を迎えたにもかかわらず、そういう人々は“新たな苦悩の1日が始まる”ことを受け入れられず、尽きてしまうのか…と。

 それで結局、今のところ、それほどには辛い思いをしたことがないということは、まだ幸せな方だと考えるべきなのかな?なんて単純にも考えて終着してしまいました(苦笑)。

 “人間万事塞翁が馬”と言いますが、“どん底”にあたる部分が出来る限り小さくて済む人生を今後は送りたいもんだなぁ、なんて、この歳にして既にそんなことを考えてしまう、いまどきの34歳でした。
(-_-;
 これは、割と最近(←※MM連載当時)知った&考えていたことです。
 もしも人間に愛情(情?)というものが無かったとしたら、自分以外の人間つまり他人という存在は疎ましく迷惑なだけのものだ、ということを。

 例えば・・・

【赤ちゃん】
 ミルクをあげて、おむつを替えてあげて、運動をさせてあげて、お風呂に入れてあげて・・・と、手間がかかることこの上ありませんよね。でも、そうしてあげないと生き続けて成長していくことはできません。
 しかし、もしもその親に愛情が0%だったとしたら、とてもじゃないけど「滅私奉公」の気分になって、「やってらんないよ!」ってことになると思います。親にとって、その赤ちゃんの存在は迷惑なものでしかありません。
 最近の事件の数々で目を引くのは、やはり特に若い両親が「邪魔だから」と言って幼子を死なせてしまうケースですね。これは自分自身が成長しきっていないのにも関わらず、子どもをもってしまった場合or子どもをもったにも関わらず親自身が成長できなかった場合の悲しい事件だと思います。
 よく「子をもつことによって親も成長させられる」と言います。これは正にその通りだと思います。子によって成長することができない親・・・これも“今どき”の傾向かも知れませんね。

【老人】
 介護が必要になってしまったような老人は、入院でもしている場合は別として、自宅で面倒を見続けなければならない場合、赤ちゃん以上に手数がかかることでしょう。
 私は介護経験はありませんが、赤ちゃんよりもずっと体が大きいだけに、もっともっと大変なことも多いのではないでしょうか。
 それを、子供である既に中年の息子/娘が愛情というものを持ち合わせていなかったとしたら、その老人の面倒をみるということは、やはり「冗談じゃないよ!!」というものだと思います。

【身内が死んだ時】
 本人は死んでしまっているから、もちろん何もできません。しかし、残された家族や親戚にとっては、それからお葬式やそれに付随する数々の「やらなければならないこと」が出てきます。これも、人間にもしも愛情がなかったとしたら、甚だ迷惑な話です。

 今回私が言っている「愛情」とは、人間が元来持っている「情」のことです。何も「ラブラブ」のような愛情のことを言っているのではありません(念の為)。

 こうして考えていった時、人間は生まれてから死ぬまでずーっと常に誰かの世話をし、また世話になっていないと生き続けていくことが出来ない生物なのだ、ということを痛感させられました。

 花が実をつける場合は虫や風が仲介しなければなりませんが、その他の動植物で、人間ほど生きていく上で手間のかかる存在は無いのではないでしょうか?

 ───そんなことを考えていくと、熱心なクリスチャン(仏教やその他の宗教のことはよく知らないので)が、いつも「感謝します」と、色々な物事に感謝している気持ち、最近になってようやくわかるような気がしてきました。

 まず、自分が生きている(生きられている)ことに感謝する。そして、日々食糧が得られることにも感謝。自分をあらゆる面から支えてくれている両親,友人,同僚,環境…に感謝。
 毎日、誰かに会う度に合掌して「感謝」などとブツブツつぶやき続けなければならないのでは…???(気味悪いか)

 そんなことを考えた時、「もっともっと広く優しい心を持ちたい」と願わずにはいられませんでした。

 また、意味合いはだいぶ違いますが、映画「椿姫」を観た時にも、人間の心の「汚さ/醜さ」と「無(無心に近い意味)」みたいなものを突きつけられたような気がして、とても心が洗われたように感じました。

 …な~んて。たまには少し哲学しちゃったりしてみました。  (^o^)/