錦秋の盛りからやや遅れて散り始めの紅葉を見に京都へ行ってきた。

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嵐山の天龍寺。

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竹林を抜ける。

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嵐山駅からトロッコ電車に初乗車。亀岡まで行って引き返すことに。

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保津川を挟んで嵐山温泉の旅館。9月の台風18号で受けた被害の修理中だった。
しかし晩秋のトロット列車は寒い!しかも窓のないリッチ号だったので凍えた!

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嵐山に戻って常寂光寺。

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二尊院。大日如来の特別開帳をしていた。

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祇王寺。

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ランチ。西院の大衆寿司、傳七ずしで軽くつまむ。

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哲学の道。桜の頃が最高だけど、秋も好きだな。

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永観堂。拝観料をケチって塀の外から。

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八重さんブーム?で人も多かった黒谷(金戒光明寺)。
特別公開でこの山門の上から京都市内を一望できた(が、撮影禁止だった)。

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夜は久しぶりに「味の店 伏見」で一杯。
これは津居山のこっぺがに。身もしっとりみっちり、ミソと卵も旨かった。

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もう一軒、四条河原町のビアホール「ミュンヘン」で唐揚げとビール。

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そうそう、この店でこんなお札を見た。
「八坂神社蛭子社」

八坂神社はいいとして、その下の蛭子社。
お店の方に確認したら、ここではやはり「えびす社」と読むという。
そうか、八坂のえべっさんか。商売繁盛の神様だ。

しかし、蛭に子なら、やっぱりヒルコだよなぁ。

この前伊勢神宮に行って以来、神道に興味を持って色々本を読んだ。
その中で興味を引いたのがヒルコだ。漢字で書けば、もちろん蛭子。

ヒルコは古事記ではイザナギとイザナミの間に生まれた最初の子だが、
出来そこないとして葦船に入れられすぐに海に流されてしまう。

日本書紀ではイザナギとイザナミの3番目の子となり、
やはり葦船で海に流される。

なんで神の子なのに流されるの?
諸説あるが、その辺は省略。
ポイントは、そのヒルコがどこから来たか
(中国説、朝鮮半島説、国内説などがある)
はともかく、いつか日本沿岸のどこかに漂着したと
想像が膨らむ点。ここが重要。

このヒルコが流れ着いたという伝説は日本各地にあるが、
それは海辺にもともとあった「海の神様」信仰と
ヒルコが次第にごっちゃになったものと考えられる。

ややこしくなるが、ここで「えびす」が登場だ。
えびすは「海の神様」で、それで図像では釣竿や鯛を持っている。

えびすはまた、
寄神(海からの漂着物を神聖視してできた神)として信仰されたり、
播神(外国の神様)とか、
ヒンズー教から仏教に取り込まれた明王などの仏
を本地仏とする神様としても、信仰を集めた。

えびすという言葉自体は、蝦夷とも書く。
蝦夷は、「えぞ」、「えみし」とも読むが、こちらの方が一般的だろう。
この言葉自体、そもそも古代の中国では東方の外国(人)を指す
蔑称で、当時の日本の大和朝廷を指していたという説もある。

その大和朝廷が蝦夷という語を輸入して東国にいたアイヌ系民族の
蔑称に使うようになったらしいので、なんだかな、と。

ともかく、ヒルコ、えびす、えぞ、えみし、海の神、外国の神
とキーワードを並べていくと、
要するに「海の向こうから来た珍しいもの」をありがたがる気持ち
につながる。

記紀(古事記・日本書紀)にあるヒルコ(海の向こうから流れてきた)と、
もともと海の神様だったえびすが一緒になって、
蛭子(ヒルコ)という字にえびすの読みがあてられた。
ヒルコはえびすと呼ばれるようになって、
蝦夷にもつながり、また外国の神様に戻っていく。
そういう渡来の本質から、
明王部の仏が神様に姿を変えたものとしてもあがめられるようになる。
この辺のどんどん色んな信仰の要素をごちゃまぜにしていく
ダイナミズムが実に面白い。

じゃあなんでミュンヘンに「蛭子社」のお札があるかというと、
このお札にあるように「えべっさん」は商売繁盛の神様だからだろう。

なんでえべっさんが商売繁盛なのか。

鯛を持っていてメデタイから、と思ったけど、
中世になって市場の神様として祀られてから
市場=商売とつながっていったらしい。
市場の神様になったのは、魚や珍しいもの、に通じたようだ。

記紀というのは、
天皇統治を正当化するための一種のレトリックだったと思うし、
仏教にしても、日本が輸入した当時は、
時の施政者が統治に使ったツールだったと思う。
(もともと悩める人を救う教えというのは承知のうえで)

しかし民衆は何かすがるものが欲しいし、
目に見えない力に頼る気持ちもある。
毎日の暮らしがきつくてせめて死後や来世で楽になりたいと思ったり、
日々のささやかな幸せに感謝して、それが続けばいいと願いがちだ。

そんな時に神道や仏教というのはすぽっと心にハマるのだろう。
ただ、神道や仏教の厳密な教義やしきたりは専門家に任せて、
分かりやすいところ、美味しいところだけを享受しようとした。
その結果、神職や僧侶や施政者の思いとは別に
色んな宗教や土着の信仰が習合していった。

そんな風に考えると、
ヒルコに商売繁盛を願って何のご利益があるのか、と思えなくもない。
もしかしたら、それはヒルコの担当外かもしれないからだ。
しかし、神や仏は確かにあって、ただ人知を超えた
ものだけに名前や解釈が色々あるだけかも知れない。
そうなれば必ずしもヒルコの担当に商売繁盛が入っていてもおかしくない。

その一方で、
そもそも神や仏に祈って何になるのか、とも思う。
神や仏って、ほんとにいるのか、と。
まぁ、それをいっちゃあ信じるしかない、ってことになるんだけど。

でも、神だろうが仏だろうが、
長年かけて祈りが蓄積されたところには、
何か人知を超えた不可思議な力が宿っていて、
それによるご利益があると思いたくもなる。

あるいは・・・

何とも自分ではどうしようもないことを、
どうにかして欲しい時、形而上学的な存在に
頼ろうとする行為が、信仰的な祈りなのかも知れない。
それによって安心感が得られれば、
それは時には成功につながり、ご利益と解される
こともあるんだろうな、と。

日々祈りをささげる習慣が身に付けば、
それによって心の落ち着きややすらぎが得られ、
結果として心身の状態をよく保てる効果もあるかもしれない。

宗教とは、そういうものかと今の私は思っている。

そう言う私の信仰上の立ち位置は、Agnostics(不可知論者)だ。
神社仏閣は大好きだけどね。

そんなことをぼんやり考えながら、
唐揚げを食いつつビールを飲んだという話でした。
(ナゲーヨ)