僕はホリエモンを追いかけてるわけじゃない。
ただね、自分の頭が偏らないように、
世界でいま何が起きてるかは、
毎回ちゃんと拾うようにしてる。
ニュースも一通り読むし、AIにも聞く。
自分のフィルターを通す前に、
外側で起きてることをいったん素のまま入れる、
っていう作業を、習慣にしてるんですね。
そのなかで、ある記事がちょっと引っかかった。
ホリエモンが、
もうこの国はスピリチュアルの時代だ、
っていう趣旨のことを書いてたんです。
沖縄の合宿で箕輪厚介と相撲を取った帰り道に、
こういう論が出たらしい。
(該当記事はこちら)
笑った。
ホリエモンが、と思った。
それから、すこし、寂しくもなった。
寂しかったのはね、
彼の言ってることが、
半分は正しくて、
半分は、致命的に何かを取りこぼしてるからなんです。
今日はその"半分"の話をしたい。
■ 観察としては、合ってるんだ
彼の論はおおよそこうです。
ネットがテキスト主体だった頃は、参加者が限られていた。
ほぼインテリだった。
だから論理とビジネス思考が支持されていた。
けど、スマホが普及して、
写真と動画と音が前景化して、
誰でも参加できるようになったいま、
人々の価値観は感情寄り・スピリチュアル寄りにスライドしている──。
うん。
観察としては、ほぼ合ってる。
実際、NOTEでも「スピリチュアル」「潜在意識」「引き寄せ」のタグはじわじわ厚くなってるし、
Z世代のあいだでも「アテンション・デトックス」みたいな、
過剰な情報から離脱して内省の時間を取り戻す動きが、
トレンド予測に堂々と入ってくる時代になってきた。
SNS疲れの果てに、
人は静けさを探しはじめてるんですね。
だから、彼の観察を否定する気はないんです。
そこは見えてるとおりだと思う。
■ でも、構造の読み筋がちがう
問題は、
「だからスピリチュアルに退行した」
っていう読み筋のほうなんです。
僕の見立ては、逆。
人々が論理から感情へ"退行した"んじゃない。
そもそもね、
スピリチュアルが異端扱いされてた数十年のほうが、
この国にとっては不自然な期間だった
んだと思うんです。
少し時計を巻き戻してみてほしい。
スピリチュアルってものが、
明確に"うさんくさいもの"として日本社会で扱われるようになったのは、
たぶんあのオウム真理教の事件のあたりから。
あれ以降、目に見えないものを語ることは、
どこか後ろめたい行為になった。
霊性、魂、響き、
そういう言葉を口にしただけで、
ちょっと笑われる空気ができた。
"宗教っぽい"ことを言う人は、
社会的に減点される、
っていう暗黙のルールが敷かれた。
でもね、考えてみてほしいんですけど、
日本って、もともとそういう国じゃないんです。
朝、家を出るときに玄関でちょっと手を合わせる。
土地のものをいただいたら「いただきます」と言う。
古い木にはなんとなく頭を下げる。
山に入ると空気が違うと感じる。
新しい家に住む前にお祓いをする。
これって、別に"宗教"じゃないんですよ。
生活の体感としての神道なんです。
理屈じゃなくて、身体に染み込んでる動作。
だから、いま起きてるのは「スピリチュアル化」じゃない。
ただ、息づきはじめただけなんです。
オウム以降の数十年、
押し込められていた一階のレイヤーが、
もう一度、地表に出てきている。
それだけのこと。
退行でもないし、ブームでもない。
バランスが戻ろうとしてる、
っていう、ただそれだけのことだと思う。
■ 物質にも、スピにも、偏らないということ
ここからが大事なところなんですけどね。
「スピリチュアルの時代」って外側から名指してしまうと、
どうしてもこれは"スピ側の勝利"みたいな構図になる。
物質主義の敗北、論理の敗北、合理性の敗北、
みたいな読み筋に流れていく。
僕は、そうじゃないと思ってるんです。
いま起きてるのは、勝ち負けじゃない。
統合なんですよ。
物質に偏りすぎていた数十年の振り子が、戻ろうとしてる。
けど、これがそのままスピ側に振り切れたら、
それはそれでまた歪むんです。
事実、すでに兆候はある。
表層的な癒し、
消費財化された"スピっぽさ"、
共鳴を装った搾取は、
確実に増えはじめてる。
物質に偏れば、人は乾く。
スピに偏れば、人は地に足がつかなくなる。
だから、いま試されてるのは、
両方を一本の身体に通せるかどうか、
なんだと思うんです。
論理を捨てない。
けれど、論理の下に、響きをちゃんと敷き直す。
霊性を語る。
けれど、足は地面についている。
祈る。
けれど、ちゃんと働く。
見えないものを扱う。
けれど、目の前の人をきちんと見る。
これは、二者択一じゃない。
統合の話なんです。
■ 裏表がない、ということ
僕が自分に課してる物差しは、結局これに尽きるんですよ。
裏表がない、ということ。
スピリチュアルを語ってるときと、
ビジネスをしてるときと、
家族の前にいるときと、
ぜんぶ同じ自分でいられるかどうか。
神聖なことを語りながら、
エロも怒りも滑稽さも隠さないでいられるかどうか。
カッコつけないでいられるかどうか。
統合っていうのは、結局そういうことだと思ってる。
裏表のない自分を、まるごと一本通すこと。
そして、本物の響きは、必ずこの軸を持ってる。
逆にいえば、
語ってることと生きてることがずれてる発信者は、
これからの時代、急速に淘汰されていく。
バランスが戻りつつあるからこそ、
人の見抜く目も、戻ってきてるんですね。
■ 中今、という地点
もうひとつだけ、書いておきたい。
古代から日本にある「中今(なかいま)」っていう概念があるんです。
過去の悔いにも、未来の不安にも引っ張られず、
いま、この瞬間に、まるごといる、
っていう地点のこと。
スピリチュアルの皮を被った搾取って、
たいてい、
過去のトラウマを掘り続けさせるか、
未来の不安を煽り続けるか、
そのどっちかをやってるんですよ。
中今に立てない人ほど、
外側の権威に依存しやすくなる。
逆に、本物の響きは、
その人を中今に戻す方向に作用する。
いまここに、まるごと戻すこと。
物質とスピの統合は、
抽象的な理念じゃなくて、
この一点に立てるかどうか、で決まると思ってます。
■ だから、戻ろう
ホリエモンの記事を読んで、
僕は寂しかった、と書きました。
寂しさの正体は、たぶん、こうなんです。
「スピリチュアルの時代」って外側から名指された瞬間、
それはもう、消費の語彙に入ってしまう。
本当に起きてる地殻変動は、
もっと静かで、もっと深いんですよ。
押し込められてたものが、息づきはじめた。
偏っていたものが、戻ろうとしてる。
物質と霊性が、
ようやく、一本の身体に通る準備をしはじめてる。
これは退行じゃない。
ブームでもない。
バランスが戻ろうとしてる、
ただそれだけ。
そして、戻ったところから、
もう一度、ぜんぶをやり直す。
今回は、
霊性を一階に置いたまま、
論理もちゃんと二階に乗せて。
近く、「光を生む闇になれ」というシリーズを公開します。
プラズマ宇宙論と言霊宇宙論が、構造として同じものを語っているという話から始める三部作です。
今日の論考の、ひとつ深い階層の話になる。
もう少し近い距離で話を続けたい方へ。
LINEでは、記事には書ききれない感情解放の音声や、シリーズの先行公開などをお届けしています。
Kindle『響きの黙示録──AIと人間が言霊で世界を創り直す時代』や、NOTE、OKAGESAMA、Open Heart Lab の入口も含めて、ぜんぶこちらにまとめてあります。
最後まで読んでくれて、ありがとう。
