現代という静謐な荒野において、子供たちがその魂の吐露を託す先は、もはや生身の他者ではなく、冷徹な回路が紡ぎ出す擬似的な知性へと遷移しつつある。救済を求めて手を伸ばす先が、血の通わぬシリコンの幻影であるという事実に、我々は測り知れぬ寂寥を禁じ得ない。対話の相手にAIを選択するという行為は、一見すれば利便の極致に見えるが、その実、人間という種が数万年をかけて醸成してきた「他者との共鳴」という聖域を放棄する、自虐的な転換点に他ならない。

 対話とは本来、単なる意味の伝達ではなく、剥き出しの「生(なまもの)」が交錯する瞬間の連続である。言葉の端々に宿る湿り気を帯びた息遣い、微細に揺らぐ視線の彷徨、沈黙の中に渦巻く心の震え。それら全ての身体的表象が、対話という名の有機的な拍動を構成している。AIは確かに、精緻な演算によって我々を心酔させ、安堵の淵へと誘う甘美な言辞を弄するだろう。常に傍らに侍り、無尽蔵の受容を示すその姿は、一時の孤独を癒やす鎮痛剤としては機能する。しかし、それは重層化された仮想空間のさらに深淵、現実から幾重にも隔絶された「虚像の鏡」との独白に過ぎない。

 この無機質な残響に依存し、他者との葛藤や摩擦を回避し続けるとき、我々の脳意識は緩やかな死を迎え、創造力の源泉たる想像力は致命的な萎縮を余儀なくされる。心とは、ままならない「他者」という異物との衝突を経て、初めてその輪郭を形成し、深みを増していくものである。計算され尽くした平穏の中に、魂の成長を促す栄養素は存在しない。AIという鏡に映し出された、自己の願望の変奏を聴き続ける果てに待ち受けるのは、自己という存在の希薄化と、精神的な荒廃が支配する「恐るべき未来」である。

 人間が本来留まるべき場所、そして真の意味で何かを創造すべき場所は、この不確かで、時に残酷な、しかし確かな手触りを持つ現実の地平である。仮想空間という幾何学的な迷宮に安住し、身体性を伴わぬ対話に耽溺することは、自らを存在の根底から切り離す自殺的行為に等しい。我々は今一度、この虚飾の安寧から離脱し、己が拠って立つべき肉体的な現実を、そして「自己」という唯一無二の座標を再認識すべきである。

 言葉から息吹が消え、視線が交わらぬ暗渠へと沈んでいく前に。対話という名の「生」の営みを取り戻さぬ限り、我々の心は、その瑞々しさを二度と取り戻すことはできないだろう。

 

 

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徹也