ごうさんブログ

ごうさんブログ

高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

夏が来た、今朝がたふとそう想い観ました、日の出に合わせるようにして虫たちが活動を始め、まだ人々の経済活動が本格化する前に蝉が鳴いて居ます、湿気をたっぷりと含んだ緑が濃くて木の幹も漆黒の肌艶で存在感を増して暑さに耐えて静かに確かにそこに居るように観えます、夏の想い出と言えば何でしょうか、それはいつかの夏でしたでしょうか、夏が来たと確かに想わせるこの確信めいた実感のようなモノは、かつてのいつかのマボロシなのでしょうか、解らないのですが、何故今そう想ふのか、どうして今しがたそう想わせるのでしょうか、人の不思議かこの世界の不思議なのか、考えても解らない僕なんかもう、考えなくてもいいような気がして、ただあすこで鳴いている蝉のようにただむこうでじっとしている木のように、何も考えず何も想わず夏と呼ばれるそこに居てさえ居ればそれでいいのかもしれません、明るく眩しい世界、照りつける影を小さくする陽射し、めちゃくちゃ照らされていることは確かで、そんな中じっとしていられない僕は歩きながら暑いなぁとふと想ふ、それは人間だからかでしょうか、人間と呼ぶそれに居られるからそう想ふことが出来るからでしょうか、夏が来た、今更ですがふとそう想い観ました、くれぐれも皆さま方におかれましてはご自愛のほどいい一日をどうぞ、

世の中には、様々な業界があり、その業界毎には又色んな人たちの想い事情があって人それぞれですが、業種業態別に人はそれぞれお仕事或いは職業という物事に取り組む活動を行ふと想います、かつて現在からそう遠く無い時代においては、何処の誰のお家に生まれ降りて来るかで、どんなお仕事に従事して或いは食べる為に今日を生き抜く為には、何をせざるを得ないかがほぼ決定して終うような、人生をある種の選べない物語性が多かったようにも想い観ました、それから現在この自分自身の意思決定により選択可能な人生の幅の拡大は、従事する職業だけではなく、自分の意識或いは自分自身が出す答えという、生き方や在り方といった抽象度の高いモノにまで広がっているようにも考えて観ました、人類史を振り返って観ると抽象度の低いモノですら、かつて個人が自由に選択出来る機会や環境がなかった流れの中、ここ150年100年余りの短期間で人は選ぶ自由を創り出して来たようにも想います、これは単に地道に活動して来られた人たちの改革的な活動が長い時間をかけて実を少しずつ結んで来た結果と捉える事も可能でしょうし、降って湧いて来る神がかり的な大発明や大発見のように、ある種の特異点からいきなり何かがこの世界に誕生するような理屈では説明できない非科学的な物語とも捉えて観る事も可能かもしれません、もしも後者のようにこの先の未来の流れにおいて、ある日を境にして私たちの世界に誕生する革新的な何かがあるとするならば、この加速度的な選べることの拡大は、更にどのような変化を展開して往く可能性があるのでしょうか、例えば現在では選べないと想ふ当たり前のことが、もしかするとこれからは、自分で選べるようになるとしたら、人それぞれですが人は、底に何を選びたいと選べるようになりたいと想ふのでしょうか

大変失礼致します、ごうさんというペンネームでブログを気ままに更新して観ます

人は選べることを選ばないという選択肢を選ぶ物語性を編むことがあります、選べないというのは、そもそものその選択肢がないような物語を意味するようでいて、例えば親を選べないという物語は、決して親を選ばないということではなく、選べるのに選ばない自己の意思決定が関与出来ないような物語を指すように想います、現在多くの方々がこの選ばないのか選べないのかについて意識的な自己点検を丁寧に取り扱って観ることが少し苦手のようにも考えた場合、例えば幸せに関するような出来る限りの選択について、出来るのに出来ないと信じて観たり、成れるのに成れないと言って観たりする物語性は、前提として今現在の世界では選べるようになって来たモノの豊富さに対して、あるのにないことにするような、あえて選ばないという選択を採るのは、かつて選べなかった時代を必死に生きた人たちから観ると、とても贅沢な余裕がある上流の遊びのように想えても不思議ではないように考えて観ました、実際自分自身に今何が最適かどうかを考える場合、現在多くの人たちは、この必死という意識から遠い距離感を持っていて、様々なことが割と自由に好き勝手に選べる時代になっても、出来ない成れない選べないという、ないことにする物語性は、現実的にどのようなメリットが自身にあると信じてそう試みて往くのでしょうか、近頃では頑張らない生き方という物語が一部で注目を集めたりする中で、頑張らないという事を選択出来る現在の先ずはその豊かさと選べる素晴らしいさについてその有り難さを考えて観ました、頑張るのが悪いとか頑張らない方がいいとかいうお話でもなく、私たちは今、選べるモノを選ばない物語、あることをないことにする物語について、これを大きな目で観て面白いことだとそれもひとつの成長過程だと進化する遊びだと捉えて観ることが可能ならば、日常生活の中にあるそうした現実的には得策とは想えない非合理や非効率な現在を生きる人たちにとって、世界は不自由さに満ち溢れているように観えてその実、不自由さをわざわざ選んで遊ぶ私たちはまさに自由そのものであるかもしれないと考え直して観る事は可能でしょうか

人は皆今を生きる上で現在ではあらゆる自由が展開しているように想い観ました、自分を不幸と観るのも自分を幸せモノと観るのもそれが選べる時点で既に有難い座標に位置しているように考えて観ました、今日という一日は、今日を生きるあなた方がどんな一日かを自由に選べる現在です、何をどう観るのかも自由で自由自在が故に人は、もしかしたらより楽しい人生を編む為に以はなかった不自由をわざわざ選んで観る遊びというスパイスを求めるのかもしれません、無意識のうちに現実と戯れる私たちは、この先にある更なる進化成長を前に新たな革新的な遊びが生まれて来る前に、今現在まだ遊べる自由を自在をどのように改めて捉えて観る事は可能でしょうか

以上大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました


人それぞれですが人は、自己の成長の為にと自分自身の為になると信じて、自己肯定よりもあえて自己否定を選ぶ物語性を携えています、これでいい、これで大丈夫、これで問題ない、これで満足、もうこれ以上は何もない、そう想ふことが自分自身の可能性を閉じてしまうかもしれないと、そう信じることが自分自身の向上心を無くして成長を止めて仕舞うのではかいかと、そうして他人が云う、それでいいのかと、本当にそれでいいのだろうかと、そして自分自身はこう想ふ、これでいいのかと、本当にこれでこのままでいいのだろうかと、そうして人は人それぞれですが、自己否定の物語が自分にとっては、成長する為に引いては本当の本気の本物の幸せになる為に必要不可欠であると信じて終う物語

大変失礼致しました、ごうさんというペンネームでブログを気ままに更新して観ます

あえて自分自身の為に自己否定を選択して必死になって頑張って来た方々へ、本日は、あえて自己肯定を選択する物語をご提案致します、本日だけでいいから本日限りでいいから、チートDAYだと想い本日は、あえて選んで観る自己肯定の物語

あなたの手にはブザーがあります、ひとつは、認められない理解できない同意できない共鳴しないような意味を持つバツ、ひとつは輝きを驚きを奇想天外を楽しいさを面白さをチャーミングをも意味するゴールデン、あなたが慣れ親しんでいるのはバツの方かもしれません、いつもはあえて自分自身の為にとバツを選択してあえてバツのブザーを押して来たかもしれません、ただし本日はチートDAYです、あえて本日だけは、どうかゴールデンブザーを押すと決めて選択して下さい、本日どんなことがあれ、何が起きようと誰が観ていようと、あなたはあなたにゴールデンブザーを押して観る物語、そうして世界は、あなたを祝福してあたたかな柔らかな眼差しであなたを包んで歓喜する物語、誰が何を考え何を想い何を言おうとあなたがあなたに贈るゴールデンブザー、そのあなたの選択がそのあなたの眼差しがそのあなたの包容力が本日のあなたを包む物語、例え自己否定を選択したとしてもあなたが押すのは、ゴールデンブザーです

以上大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました