「反省はいらないよ」
と聞いたのは、何年前だったか…
すごく衝撃だったのを憶えてます。
チョットナニイッテルノカワカラナイデス(゜゜)ってなった。
‟いらない”というと極端なようだけど、
「私が悪かったです」は‟いらない”ってことだと受け取っています。
責任の所在を明らかにする必要がある場合もある。
それは、責任の所在がそこにあるというだけで、「その人が悪かった」とは違うということ。
悪者の成敗は水戸黄門だけでいい。
昔々学校で、授業中ふざけていたら
「廊下で立ってなさい!」なんてことがあった世代です。
さすがに両手にバケツはなかったと思う
要領よかったのでそんなに数はないけれど、廊下に立ったことはある。
これして何になるんだろう?
まぁでも、しばらくこうしてたら許されるんだよね。
今度は見つからないようにしよう
っていう気持ちだけが残った。
反省はポーズ。
なんかそれをしてたら
許される
認めてもらえる
潔さが逆に褒められる
丸く収まる
そこに居続けられる
ちゃんとした人感がある
そういうもの。
そんな認識が、「反省」という言葉の中にいつからかしみ込んでいったような気さえします。
そんな認識に気づくこともなく
思いっきり(ポーズも含めて)反省してきたし、
至らない自分を責めまくってきたし、
なんとか悪者で終わらないよう必死に言い訳を探したりもしてきました。
「反省はいらない」なんて、そりゃぁ驚くよ(笑)
あー、あのときはあぁすればよかった。
あー、そこまで気が回らなかった。
あー、もっとこうできたはずなのに…
そんな失敗のようなやらかしのようなこともする中で、それすら起こるべくして起きたのだという確信とともに少しずつ納得感が深まってきた「反省はいらない」。
失敗が教えてくれたこととも言えますね。
反省というと、悪かったところを探して認めるような感じ。
すると、たどり着くのは「悪かったです。ごめんなさい」
でも大事なのは、じゃぁどうする? どうしたい? だったりする。
そこには「喜び」がある。
それは、反省というより振り返り。
こういうことがあったね
こんなことを思ったよ
と見聞き体験したものを目にとめることはしても、探しに行かなくていいし
残念だった
申し訳なかったなぁ
悔しかった
湧いた感情は湧くままそのままにしながらも、謝っても謝らなくてもいい。
じゃぁ、次はどうする?
本当はどうしたい?
そんな‟振り返り”はとっても大切なことだと思う。
答は出なくてもいい。
そう問い続けていく時間が、とても好きです。
なんでもないと片付けてる日常を
うっかり反省して凹んで終わる出来事を
楽しかった~でこぼれおちていく喜びを
振り返ることでギフトに変えていく部活がまた始まります。
やりたいことを見つけて形にしていく
じぶん探検開発部〈8期〉
7/22(月)から4クラスでスタート
どんな人たちと、どんな時間になって、何を受け取り合っていくのか、楽しみです。