「見える化」という言葉が使われ始めてから、大分月日が経った。
元々経営上使われ始めた用語で、現場での作業工程などを数値として把握して、
客観的な判断が出来るようにするためのものだ。
漠然としたモヤッとしたものを、皆が分かる形で共有しましょうということだ。
 
経営の話とは少しずれるが、我々の暮らす社会では元々、見たいものも見たくないものも
大体において見えてしまっていた。
身近な衣食住で考えても、着るものは植物から作られた原料を基に女性たちが作り、
ほころびが出ればほどいて作り直したりして大事に使っていた。
食べ物は身近なところで作られた(作った)野菜や野山で狩ってきた動物、海で釣ってきた魚など全てが身近な原料から作られたものだった。
住むところも身近な材料を加工して、周りの男性たちが作ったものだった。
 
しかし今、その様に原料や工程が見えているものがどの位あるだろうか。
着るものはデパートやスーパー、専門店で売られている、どんな人が作ったどんな原料を使って、どこの誰が作ったか分からないものだ。
大量生産され、値段も安く、着なくなればすぐに捨てる。
食べ物も同じ様に、店で売られている、どんなものが入っているか、どんな場所で作られているか分からない、ほとんど全てがビニール袋で包装されたものだ。
個人商店などで買うものはまだ作り手の顔が見えるだけいいが、
通信販売に至っては、買うものの現物さえ見ないでクリック1つで購入している。
住むところにしても然りだ。
身近なものですらどんどん「見えぬ化」が進み、我々は自然から本当に遠く離れた場所にたどり着いてしまったのではないか。
 
買うものがそれだけ”見えぬ”ものとなり、そこから出た廃棄物の行方など
考えることすら恐ろしい。
大量の化学製品から出たゴミは、魔法使いが全て魔法で消してくれるわけではない。
我々は、まずは想像力を取り戻さねばならない。