2024/02/13 | 忘備録

忘備録

19歳妊娠
20歳出産
シングルマザー

2月11日

深夜2時頃

祖母が亡くなった知らせが届いた


祖母はアルツハイマーで寝たきりになり

逢いに行くがとても昔の面影は見えなかった


元々小さかった体は

骨と皮だけのようになり

言葉も話せない

目を開けるのがやっとの状態

声が聞こえてるのかもわからない


そんな状態の祖母に会いに行くのはとても辛かった


大好きな祖母


私は父方の祖母が大好きだった

もちろん母方の祖母も好きだが

父方の祖母はとても優しく、勝手に遊びに来た私や妹にも寛容で

美味しいご飯をつくってくれて

休みの日は公園へよく遊びに行き、祖母が握ったお茶漬けのおにぎりを食べながら

いとこと虫取りをしたりして遊んだ

祖母は花が大好きだったから、秋になるとコスモスも見に行った


私と妹はほぼ毎日

祖母の家に遊びに行った


けど祖父母が叔母の家に引っ越してから

家も遠くなったのであまり行かなくなった

息子が産まれてから

たまに行く


徐々に変わっていく祖母

お正月に必ずおせちを作ってきてくれた

ふと祖母の芋煮に味がないことに気がついた

父親はそうか?いつもの味じゃないのかと言ったけど

あまりにも味がなかった

多分ここから祖母はボケて来たのだと思う


家に行っても

カーテンはしめきり

ものは散らかり

綺麗好きな祖母がやることとは到底思えなかった


けど優しいところは変わらなくて

遊びに行くと必ずなにか出そうとしてくれた


このままずっと

優しい祖母のまま長生きするのかと思った


けど叔母がいきなり

親の面倒は長男が見ろと

祖父母を私の父親に追いやった


多分、祖母のボケが酷くなり自分一人じゃ抱えきれなくなったからだろう


祖父も大事故をし、免許を返納してしまい


祖母は叔母が飼い始めたがとても祖母が可愛がり大好きだった犬、我が子のように可愛がったいとこ、そして料理、掃除を奪われた状態で

我が家の横の賃貸に来ました


もうその頃に祖母はボケが酷くなり

トイレの行き方を忘れ

やり方もわすれ

徘徊をしたりしていました


けど私の名前はきちんと呼んでくれてました


ある日、圧迫骨折をしてしまい病院に入院すると

もうあれよあれよと

とんでもないスピードでアルツハイマーが酷くなりました


病院や施設、老人ホームなどを転々とし


最後に行き着いた老人ホーム


そこで祖母は栄養剤を鼻からチューブでいれ生かされてる状態でした


そして

施設のスタッフ、病院の先生から

もう、手の施しようもない、このままじゃ苦しいと思うから鼻からの栄養剤を止めましょうと言われました


そしてそれに承諾


祖母は栄養剤をとめてもらい

6日間生きましたが その後眠るように息を引き取りました


日曜日

祖母がいる葬儀場へいくのに泣きながら向かいました


綺麗な顔にしてもらった祖母

まるで寝てるかのようだけど

とっても冷たかった


月曜日

この日は祖母の火葬

親族で棺桶にお花を入れたり

祖母があの世でお金に困らないよう、三途の川の渡り賃になるよう

お金を入れました


火葬場へ向かい

もう燃やされてしまう

祖母がいなくなると思うと

ほんとに悲しくて

涙が止まらず


けどしっかりと

祖母の顔を目に焼き付け

祖母の体が燃え尽き骨になるまで待ちました


1時間程で呼ばれ

お骨をみんなで拾いました


もう骨になってしまうと

悲しさはなく、ただただ虚無でした


叔父も叔母も泣き

ちちおやは泣かなかったけど

喪主としてしっかり役目を果たしました


今日からいつもの日常が戻ったけど

父の心はやはりまだ追いついてないようで

朝仕事へ行きましたが

やはり辛いと仕事をやめ朝帰宅してきました


そりゃ、お母さんが死んだらかなしいよな


普通の生活に戻るのって

しばらくかかりそう


祖母の遺影を見ると

涙が出そうになるけれど


初七日まで祖母は近くにいてくれると思って

頑張ろう


遠い遠い九州から

愛知に祖父と共に上京してきた祖母


寂しかったろうに

辛かったろうに

相談できる友達も親も傍にいなくて

1人心細く3人の子供を育てた

The九州男児の祖父はきっと子育てにあまり積極的では無かっただろうし

祖母もほとほと愛想つきそうな事しかなかったろうな


けど、初七日が終われば

天国へ行ける


そしたら九州のひぃじいちゃんばあちゃんと逢えてるはず


そしたら寂しくないよね


ばあちゃん

お疲れ様


ほんと大好き