言葉の使い方に疑問を感じる事が多いです。
いつからこんなに言葉に敏感になったのだろう。

言葉や言語ということに関しては、関心が元々高かったのですが、出発点は中学生の時に始まった英語学習だったのかも知れません。ひょっとしたら、中高生の時に読んだ本田勝一さんの著作の影響もあったのかも知れません。

その後、大学でスペイン語を学んだ時に、スペイン語自体がいかに外来語の『襲来』への防御が硬いか、という事実に触れて、あらためて日本語と日本人の一般的な性質について考える事が増えた様に思います。

ただ、ここで表現しようと思っているのは、もっと身近で、もっと普段着の、もっと毎日向き合う種類のもの。

武田砂鉄さんの指摘にも似た、日本語の使い方について、私の疑問をいくつか具体的に書こうと思います。

とは言っても、戯言です。気軽にとらえてください。

『世界観』
何かと言えば世界観、世界観と捲し立てる。芸能人やタレント、アーティストに顕著。あたかもその『世界観(世界の捉え方・見方)』がその人の固有の財産・資源であるかのような言い方。あたかもその『世界観』が唯一無二、オリジナルであるかの様な言い回し。

『〜〜と思っていてーー』
20代30代が多用する傾向があるように思う。女性の場合、『いてーー』の語尾の部分を気怠く伸ばすか、短く抑揚なく切る、の2パターンあるように思う。男性の場合、どちらかというと、インテリ層に多用する傾向が見られる。

『カタカナ英語乱れ打ち族』
学者・作家・経済評論家・医者などの知識人に顕著。日本語で説明できるところをわざわざカタカナ英語に置き換える。「この男性社会における女性のエンパワーメントを高めるためには、、」などど表現する。

『ほっこり』
造語なのだろうか?いつから出てきたのかはわからないですが、ここ5年くらいが顕著なのではないでしょうか?私は個人的にこの言葉の語感から全く安心感や暖かさを感じません。

『違和感』
自分の狭い了見から少しでも逸脱した現象や状態を目の当たりにした時にすぐさまこの言葉を使う。相手にとっては、この言葉を使っている人自体が『違和感』である事に気づかない。声高に正義を主張する場合に使われる傾向がある。

『シェア・ケア族』
シェアする、ケアするなど、英語の動詞に「する」を付けるだけのお手軽表現。耳障りだと感じている人が周りにいる事をつゆぞ知らない彼らはそのうち、スピークする、とかリードするとか言うのでしょうか?

『つつ族』
何かと言えば〜〜つつという語尾にする。宿題をやりつつー、テレビを見つつー、ご飯を食べつつー、みたいに。

ネタはまだまだあるのですが、今日はこれまで。