3・11のその時を、
私は、故郷の南三陸町ではなく、内陸部の登米市で迎えました。
地盤の弱い場所に建っていた店の中で、
空き家になっていた隣家が覆いかぶさり、物や家具が倒れる様子を
まるで映画の様だと思いながら体験していました。
2メートル以上もある大きなガラス窓が、音を立てて砕け散り、
厚さ15ミリのガラスのドアが枠から外れて倒れ、
とにかく全てのものが凶器になったような店の中で、
無意識にお客様に覆いかぶさっていました。
その時は、恐怖すら感じられませんでした。
でも、南三陸町は、津波に襲われるだろうと確信していました。
なので、その瓦礫の中から、息子の写真だけを持ち出しました。
彼は、南三陸町にいて、仕事中。
津波となれば、無事ではいられないかもしれない・・・
そんな思いが頭をよぎっていたのです。
余震の続く中、駐車場で写真を抱いていました。
何度かブログに書きましたが、
彼は一度津波に飲み込まれ、流されました。
でも、瓦礫の中で生きていました。
身体のあちこちと、心には、消えない傷が付いてはしまいましたが、
それでも、直後からボランティアができるほどの力を持った状態で生還しました。
私は津波を見てはいません。
家や事務所や貸衣装などは、全て流されてしまいましたが、
家族も、近い身内も、命に別状はありませんでした。
周囲には、支えて下さる人たちも沢山いて下さいます。
それでも、時折襲う小さなフラッシュバックを感じます。
2年経っても、睡眠のリズムが整いません。
この、気の強い私でさえ、そうなのです。
沿岸部で被災された方々の心の痛みは、いかばかりか・・・
原発の近くにお住まいだった方々の悲しみは、どれほど深いか・・・
計り知れないものがあると思います。
先日行われた、曹洞宗尼僧団の法要で配られたお地蔵様、
まにまにさんが届けて下さいました。
沢山の祈りが、人々の心を和らげて下さっています。
ありがとうございます。
被災地は、瓦礫が無くなったくらいで、
復旧は少しずつ進んでいますが、それは復興ではありません。
(例を挙げると、南三陸町では、
上水道管でさえ未だに仮設の状態です。
これは復興ではなく、復旧しただけだと私は思っています。)
前に進んだ人と、進めない人の格差は、
否応なしに広がっています。
先日、テレビで見たのですが、
2年経った今でも、避難所で暮らされている人もいらっしゃるそうです。
仮設住宅ではありませんよ、避難所です。
段ボール等で仕切りを作ったところ、です。
理由は、
「独りでは暮らせない」からだそうです。
行政は、そんな方々を強制退去させようとしているそうです。
強制退去・・・
悲しすぎます。
3.11の前に戻ることはできないと、誰もが知っています。
ただ、人間には、できる限り幸せになる権利も義務もあると思うのです。
何か方法は無いものなのでしょうか。
私は、無力に等しい人間です。
でもせめて、これからも祈りたいと思っています。
皆さまもどうか、祈りを届け続けてください。
あの日を、
そこに住む人々を、
そしてそこに住めなくなった人々を、
忘れないで下さいね・・・
お願いです。