【スタート】


   [あと三分で着く!]

いつものように朝の待ち合わせ時間ぴったりに森口からメールがくる。

俺とタカシはイライラしながらそれでも森口を待っていた。

「もう行こか」しびれを切らしたタカシが言う。

「そやな」俺は返事をする。

[先行っとくわ]とメールを送った瞬間、遠くの方から自転車を漕ぐ森口の姿が見えてくる。急ぐ素振りは全くない。絶妙で最悪のタイミング。

結局十分程遅れてきた森口のせいでいつも俺たちは遅刻ギリギリで学校に到着する。これが三年間続くとは夢にも思わなかった。

   俺たちの通う高校は駅から歩いて十分程の山を少し登った所にある。自転車で通うにはキツい上り坂が続き沿道には桜の木が植えられいる。春になり桜が満開なると白いトンネルが出迎えてくれる。今年でこの景色も見納めかと思うと感慨深いものがあったりなかったり。

結局チャイムとほぼ同時に学校に着き、俺は五組に、森口とタカシが四組にそれぞれ分かれていく。

   「きよったで!」朝からやたらテンションの高い北川が、腹立つ顔と腹立つ声で迎えてくるので何時ものようにビンタをお見舞いしてやる。「あ〜んっ」とこれまた腹立つリアクションをするので完全に無視をしてあげた。

 一限目は現代文。白髪メガネの男の先生は優しく、授業もわかりやすいと学生からの人気も高い。

しかし、数分後にこの先生の逆鱗に触れることになるとはこの時はまだ誰も知らない。

   この日は森鴎外の短編小説『舞姫』を題材にした授業であった。

豊大郎とエリスの恋のお話。セックスとお笑いのことしか考えていない俺たちに小説なんてものを理解できる訳もなく、暇を持て余した俺たちは退屈しのぎにあるゲームを始めた。

題して

『爆笑を掻っ攫え!笑いのポイント合戦〜!』

ルールは単純で、この縛られた授業中という環境の中で、誰が一番多くの笑いを取るかというもの。2、3人笑えば1ポイント。

5、6人笑えば3ポイントと笑いの量に応じてポイントが与えらる。そして最終ポイントが一番高い奴が優勝といったなんとも楽しそうなゲームである。

参加者は5人

俺。

あ〜んっ北川。

クラス1の人気者。磯谷。通称いそ。

ドSのグレイシーギタリスト。家原。

すべり芸の申し子。内田。通称うっちー。

この個性溢れるメンバーで笑いのポイント合戦がスタートした。

20分後。

皆、思い思いのやり方で、爆笑こそはないものの順調にポイントを稼いでいった。ただ一人を除いて。あ〜んっ北川である。

北川を除く4人は先生に授業とは関係のない突飛な質問をしたり、席が近い何人だけを集中的に笑わせたり、思いっきりすべりそれを笑いに変えたりと、着実にポイントを稼ぎながらこのゲームを楽しんでいた。この時点ではいそが一番ポイントを稼いでいただろうか。

しかし、北川だけはポイントを稼げず、このゲームを楽しめず置いてけぼりの様子であった。

その時である。

幸か不幸か北川に音読の順番が回ってきたのである。ポイントを稼ぐには絶好のチャンスである。しかし所詮暇つぶしで始めたゲーム、誰もがごく普通に音読すると思っていた。

「それでは、北川くん。52ページの2行目から読んでください」と先生が言う。

「はい」と返事をして立ち上がり、北川の音読が始まった。


夢かとおもった。

始めは何が起きたのか全くわからなかった。

たった数秒でこんなに空気というものは変わるのだろうか。教室が凍りつき、時が止まったかのような感覚さえもあった。

そう、北川がポイントを狙いに行ったのである。

それも高音の超音波のような変な声を出すという、何とも典型的で滑稽な方法で。

0ポイント。

笑いどころかいきなりのことで悲鳴をあげる女子生徒もいた。北川の隣の席に座っていた女子生徒は、彼を化け物でも見るかのような目で眺めている。

俺は机に突っ伏し、顔を隠して笑いを堪えるのに必死であった。腕の隙間からいそを見てみると彼も同じような姿勢をし、小刻みに震えている。それを見て益々笑いが込み上げてくる。おそらく家原もうっちーも同じ姿勢を取っていただろう。皆、他人のフリをした。北川の奇天烈な行動と俺たちは無関係であると、彼が勝手に始めたことだと言わんばかりに。

「普通に読んでください」冷静に淡々と先生が北川に言う。

「はい」と弱々しく返事をし、顔を赤らめながら、普通に続きを読み出した北川が無様でならず、俺はまた笑いを我慢する。

音読が終わり、相変わらず空気は最悪であった。ざわつく訳でもなく、誰か喋り出す訳でもない。そこで先生が口を開いた。

「文化祭直後で浮かれているのはわかりますが、授業中にふざけてはいけません。先ほどからおかしな質問などもしていましたがそれもよくないですね。皆の迷惑にならないように集中しましょう。」いつも穏やかな先生がいつもと同じトーンで喋り、淡々と宥めるように俺たちを叱った。その雰囲気が逆に恐ろしく、ここでもまた北川の「はい」という弱々しい返事だけ溢れた。

この後の空気はとても重たく、この教室には誰もいないのではないかと思うほど静かにゆっくりゆっくりと時間だけが流れていったのであった。

この日から一か月間、死んだように北川がボケなくなったのは言うまでもない。