私は この詞に心を救われていた時期が短くありません。



「どんなよろこびのふかいういみにも

 ひとつぶのなみだか

 とけていないということはない」


ここの部分です。


なんだか この流れが

バンドback numberさんの

「水平線」と「ブルーアンバー」

二つの曲と

通じているような感じがしました。


どんなに悲しいことも

無力感を味わわざるをえないときも

それでも 必死にこらえて 生きている

そのギュッ とする感じそのものが 

命の輝きであって

必死な本人は 毒されて死にそうかもしれないけど

死にもだえながらも

結局は 切望するものをかかえている

だからこそ

レプリカではやってこない

その魂の必死さを 外から見ている人たちは

「いきている」と感じ

命の輝きのように とらえられることがある。


オリンピックなんて

まさにその宝庫ですよね。


その人にとっては すさまじく苦しい時間

だけど

その切なる本当の心に

人々は美しさを感じてしまう

切望 という AIでは産み出せない

懇願であり

かなわないことほど

憧れと愛おしさがつのる

切望だからです。



🎧️🎶ブルーアンバー


「ブルーアンバー」は

あなた 泣いてるけど

とってもキレイだわ…。


と 命からがら

声を凝らして泣いてる奥底の自分

そこにも切望があるから

命が輝いてる


(ブルーアンバー/青い琥珀)

誰にも言わないで墓までもってく気持ちを

「海の底」 という比喩を使って

己の必死さゆえにエネルギーがあることも

言葉にせずわかっていて

きっと宝石になるんじゃないだろうか

なんて己の輝きもうっすら感じながら

だけど たいして望んでもいない

「遠くの海の底に沈んで

そのまま宝石にでもなれるのを待つわ」

まるで

いまはぐちゃぐちゃで宝石にはなれなくて

でもきっと 時の力で

私の言葉にできない叫びも 昇華されてくれるんじゃないかしら という 微塵の願望

みたくも感じられました。


喜びだけが 輝きじゃない。

そう云ってくれているような。


(歌詞から抜粋)



「綺麗よ」は

切望と願望に殺されかけながらも

必死で生き延びてる自分自身の生きる力

に向けて 肯定してあげてる 己へのひとこと

のような感じもします。


自分を「これ以上醜くなりたくないの」といっておきながら それは他人に晒された自分の話であって 

“わたし”と二人きりになったときには

奥底の自分に対して 絞り出すような声で

「綺麗よ…」と いってあげる。

切なる声をあげて泣いてる自分は 綺麗だ と

自分自身も 認めている。

自分への愛があることを肯定できていて なんだか 救われる気がする。


生きる力は

平和なときじゃなくて

つらい時にこそ 力を発揮する


その輝きも

キラキラしてる時間に じゃなくて

押し込められたとき

いきたい とおもう気持ちのなかで

放たれるもの


そしてそれを 眺めてる人にとって

その切なるものは

なにものにも代えがたい輝き。

憧れ にすら値するもの。




🎧️🎶水平線


「水平線」においては



「あなた」自身は 辛く悲しい 膿むような時間のなかで過ごしているかもしれないけれど

その叶えられなかった愛しさや切望は

「誰か」から見たら

命の輝き 


そんなふうにも 感じ取れました。


諦めてない。


叶えたかった気持ちを

だからくやしくてやるせなくて虚しくて。


でも結局

「しあわせは ふしあわせをやしないとして はなはらく」

のですから


生きよう 生きたかった やりたかった

守りたかった やるせないといいたかった

その喉の奥で言葉にできない気持ちを噛み締める時間は ある人たちからは 輝やいてみえて

(切望するほど向き合えている ということだから)


そういう

輪廻的な時間差の話じゃなくて


いま このとき あなたの膿むような気持ちは

ある方面からみたら 美しさでもあるんだよ

という 。「その輝きを放ちたくても放てない」生きかたをしてる瞬間の憧れにもなるだろうから。


心の奥が死んでしまいそうなことは

時々訪れるけれど


こういう「悲しみ」すら「輝き」であるよね


と 切り取ってくれる歌や詞を耳にすると


この時間も しかたあるまい と 受け止めるようになるわけで。


私のなかにある膿みは

誰かからみたら 輝き であることもある

そう思えるような

生きたかをしていきたい。

膿みに殺されてしまうのではなくて。



泥釉七宝作家

故・上沼緋佐子の一人娘


上沼亜矢