存在することが原罪ないし原冤罪であると言いうるのだが
しかし果たして
存在することとはそれのみに限定されうることなのだろうか。
我々が存在するということ、それは何度も書いているように
ひとつの根源暴力によってなされており
さらにいえば
我々の存在そのものが実はこの根源暴力と同一化してしまった
暴力なのである。
形而上学的にいえば
世界の中で
我々が一つの場所を
占有しているということは
本来ならば可能であった他の存在が世界に現れることを
阻止しているということだからである。
このような認識が根底にあればこそ
カルマの解消や贖罪といったことが
多くの宗教において課題となってきたのであった。
しかし、ここで一つ迂回してみようではないか。
この世界を一つの舞台として考えてみる。
舞台にあがるは選ばれた役者たち。
そして選ばれなかった役者たちがじっと舞台を見つめている。
この時、果たして
選ばれなかった俳優たちは舞台上の俳優たちを
憎しみや羨望だけで凝視するだろうか?
ということである。
もちろん、そういったことはありうる。
しかし、その逆、
「見事に演じてくれ」「素晴らしい舞台にしてくれ」
と、応援と喝采を送るものもきっといるはずである。
言い換えると、
我々のかわりに存在しうるはずだった
可能存在Xたちは
(Xではなく)ほかならぬこの私たちが
存在しているということを
(咎め、裁くのではなしに)
許し、そして応援していることを仮定することも可能である。
原罪も原冤罪も経験的に証明できるような事柄ではなく
一種のドグマである。
そして、それらとまったく同格に
「我々は許されてこの世界に出来した存在物である」
というドグマを立てることは可能なのだ。
我々は許された。だからこそ在る。
だからこそ
私たちの存在が織り成す物語は
我々がそこからきたところの始原へ、
すなわち許しへと回帰する。
私たちは
私たちが許されて故に存在しえたように、
憎み合い、罰し合うのではなくて
お互いに許し許されるものへと成長していくことができる。