昨今の情勢について、備忘録として書いておきます。

①テロとの戦いは不可能である。

テロリズムと「戦う」ことは不可能である。

テロリズムは、軍事的警察的暴力による実力行使によって

破壊・粉砕できるようなものではない。

テロリズムは、

民生の安定、教育、健康、一定の予測可能な未来における人生の希望などによって

ただ無用化される。

われわれは誰もがテロリストになりうる。

幸い私がテロリストになっておらず、おそらくあなたもまたそうであるのは、

テロリズムへ人を誘う回路に強く晒される機会に遭遇していないからである。

この回路に巻き込まれてしまった場合、

その人が優しく善良であればあるほど

「優秀」なテロリストに変貌するということも十分にありうる。

ある種の環境とある種の教育が醸成するこの特殊な回路を断つものは

繰り返しになるが、決して武器ではない。

これは断じて理想論ではない。人間の事実に即する事柄である。




神の死のあとの世界においては

悪をなす者どもこそが

天使の代理人として

負の福音を告げ知らせる

影の天使となる。

すなわち、

この地上が

腐敗と軽蔑と恐怖とが勝利し凱旋する場所であるという

負の福音を昼も夜も宣教する。

我々が回心を遂げるまで

悪の勝利は必然となる。

とはいえ、

今までも述べてきたように

従来の神信仰の取り戻しは

決して我々の回心を意味しない。

それもまた

負の福音の一環をなすであろう。

そこにこそ

我らの時代の困難さも存するのである。

人間の歴史とは神の死の歴史の別名である。

しかも、神の死は人間に対して覆い隠された。

この原初の神の死の覆いのことを長らく神と人間は呼んできた。

しかし、ニーチェのツァラトゥストラに抗して

人間が神を殺したわけではまったくない。

神は自らの死を死んだのである。

神は進化しないが、神の死は進化しうる。

そしてこの神の死を媒介として

人間もまた進化してきた。

しかし、死せる神の復活が人間の歴史の目的というわけではない。

神と神の死の相克と調和を生きながらも

人間が目指すのは

おそらくは神と神の死が再び出会うことなのであろう。


この地上に星などない、

一つも。

あの欠片は堕ちた星ども。

災厄だけを引き連れてやってきた。

いつかあの空も破れ

半減期を持たぬ巨人たちが

手をつないで回り始める。

あたかも水の山のようにして

その尖筆で

蝿の王を戴冠するために。
不在の神の歓喜の木霊が

無限の緑を奏で

みるみる生い繁っていく。

力尽くすべきは

ただ

その諧調、

その色彩に

耳を傾けることのみ。

地上において

生ける屍にならぬための

この対価。

それを

礼節にまで高めなければならぬ、

われわれは。

生も

死も

それ自体では何ら謎ではない。

生と死が

協同して

何かを隠しつつ

同時に

何かが隠されていることを

露にしていくのである。

ではこの隠されている何かは

果たして謎なのであろうか。



人間の生を原至福とみなすことも

はたまた原冤罪とみなすことも

まったく同じように可能である。

私としては

般若心経に倣って

「原至福即原冤罪、原冤罪即原至福」といいたい。

なぜ私たちは生まれ生き出会い別れ死ななければならないのか。

この問いは苦悩なしには始まることはなく

生と死の謎を一種の刑罰として捉える発想は

何ら不自然なものではない。

にもかかわらず

まさに生死を刑罰として認識するや否や、

私たちはまさに構造的暴力としての存在に屈したこととなろう。

であればこそ、

「存在すること」の別種の可能性が開示されなければならない。

とはいえ、

冒頭に述べたように

原冤罪も原至福も

まったく等価な可能性なのである。

存在することの根源的な暴力性を認識するためには

原罪(=原冤罪)というものを噛み締める必要がある。

むしろ人間の生とは

原冤罪と、原至福と

その還元不可能な双極の緊張関係をこそ

生きるものなのだろう。







前回述べたことを繰り返そう。

私たちは許されたがゆえに在る。

であればこそ、

私たちはお互いに許しあうことに向けて

成長しうる。

というよりも

始原の許しに向けて

回帰するのである。

これはいわば原罪と対比させて

原至福と呼んでもよい。

神が私たちを創造したという創造神信仰は

まさにこの原至福の一端を語っているといってもよい。

神が「よし」とされたものが

悪しきものであるはずがあろうか。




存在することが原罪ないし原冤罪であると言いうるのだが

しかし果たして

存在することとはそれのみに限定されうることなのだろうか。

我々が存在するということ、それは何度も書いているように

ひとつの根源暴力によってなされており

さらにいえば

我々の存在そのものが実はこの根源暴力と同一化してしまった

暴力なのである。

形而上学的にいえば

世界の中で

我々が一つの場所を

占有しているということは

本来ならば可能であった他の存在が世界に現れることを

阻止しているということだからである。

このような認識が根底にあればこそ

カルマの解消や贖罪といったことが

多くの宗教において課題となってきたのであった。

しかし、ここで一つ迂回してみようではないか。

この世界を一つの舞台として考えてみる。

舞台にあがるは選ばれた役者たち。

そして選ばれなかった役者たちがじっと舞台を見つめている。

この時、果たして

選ばれなかった俳優たちは舞台上の俳優たちを

憎しみや羨望だけで凝視するだろうか?

ということである。

もちろん、そういったことはありうる。

しかし、その逆、

「見事に演じてくれ」「素晴らしい舞台にしてくれ」

と、応援と喝采を送るものもきっといるはずである。

言い換えると、

我々のかわりに存在しうるはずだった

可能存在Xたちは

(Xではなく)ほかならぬこの私たちが

存在しているということを

(咎め、裁くのではなしに)

許し、そして応援していることを仮定することも可能である。

原罪も原冤罪も経験的に証明できるような事柄ではなく

一種のドグマである。

そして、それらとまったく同格に

「我々は許されてこの世界に出来した存在物である」

というドグマを立てることは可能なのだ。

我々は許された。だからこそ在る。

だからこそ

私たちの存在が織り成す物語は

我々がそこからきたところの始原へ、

すなわち許しへと回帰する。

私たちは

私たちが許されて故に存在しえたように、

憎み合い、罰し合うのではなくて

お互いに許し許されるものへと成長していくことができる。







自ら望むことなく、この世に生み出され、

思い通りにならない生を生きることを強いられ、

他者の生を奪い破壊することを強いられ、

自ら望むことなく、この世から追放される。

このような生の苦しみの原因を追求した結果を

神学的に表現するならば

原罪となる。

しかしながら、

このような生/死を強いられた我々一人一人は

果たして

本当に有罪なのだろうか。

そもそも「はじめに罪ありき」という状況を

強いられているということこそが不当なのではないだろうか。

存在するということは罪という連関において語るならば

実は冤罪によって

(不当にも)告発され審判に引き出されていると表現できる。

我々が世界に存在すること、それは始原の冤罪ともいいうるのである。

(続く)