皆様こんばんは。ブログおよびホームページ管理人の神@北見です。

 

最近は相変わらず調子も悪いということで記事重視で行きたいと思います。この記事は2月末から書き始めていたのですが資料の整理や構成を考えるのに時間が掛かっております。書き始めたものの文量が多くなりすぎた場合は2つに分けるかもしれませんのでご了承願います。

 

急行型気動車であるキハ58系は、郵政省所有のキユ25と、兄貴分のキハ65を合わせて1926両が製造され、一時は気動車の3分の1を占めるほどの一大グループとなりました。しかし登場直後より電化や長大編成対応車増備による移動が激しく、昭和50年代に入ると特急化の波も加わり次第に勢力を失い始めます。それでも旺盛な需要で転用が続きましたが、1978年の「53-10改正」では急行列車の本格的な削減が行われ、「グリーン車」の淘汰が本格的に始まることになりました。ただ普通車は、当時キハ10系や初期のキハ20・55系が置き換え対象になってきていたことから、普通列車に転用する流れが加速して来ました。1980年代に入ると地方幹線に残っていた「客車列車」、特に旧客を使用する列車の置き換えに際し、キハ58系の装備が適していたことから客車の気動車化推進にも一役買うことになりました。本来1980年代中盤には本格的に淘汰が始まり1990年代にはほぼ消滅するくらいの車齢の車でしたが、冷房の無い一般形気動車や運転上効率の悪い客車列車を置き換える命題が課せられてしまったため想定外に長生きしてしまったのでしょう。またJR各社が都市圏の輸送力増大や車両置き換え、特急列車のグレードアップや拡充に投資を向けていたこともあり地方路線に手が回らなかったことも一因でしょう。悪く言えば「その場しのぎ」的な投資かも知れませんが、近郊化・ワンマン化・アコモ改造・車両更新・機関換装など様々な改造が施されて延命されました。

 

とはいっても1985年頃からはじわりじわりとその数を減らしていたキハ58系、減ることはあっても増えることはあまり無い状況でしたが、1980年代末期の福知山区では一時的にキハ58系の配置が3倍程度まで増えるという珍しい事象が起きました。今回はこの事象について振り返ってみたいと思います。


 

1.1987年4月

 

まずはJR化直後の1987年4月1日時点での福知山・豊岡区のキハ58系配置を見てみたいと思います。

↑JR化直後の1987年4月1日時点の福知山・豊岡の気動車配置です。福知山にはキハ28・58が22両、グリーン車込みで25両配置されています。豊岡にはキハ28・58が27両、グリーン車込みで31両配置されています。両区合わせるとキハ28・58が49両、グリーン車込みで56両と比較的大量のキハ58系が配置されていました。これらは主に急行「丹後」の全列車と急行「但馬」1往復に使用されれており、普通列車へは間合い運用・送り込み運用や代走のみでした。

 

そして普通列車用というとキハ47が配置されており、福知山に21両、豊岡に24両います。この他向日町にも山陰本線京都口用として18両のキハ47が配置され合計で63両にも上り、暖地向けキハ47の2割近くは当地区にいたことになります。ただし福知山・豊岡の車は山陰本線城崎以西や舞鶴線・宮津線等でも使用されていました。

 

では山陰本線京都口の普通列車はこれらのみで運用されていたかというとそうではなく、なんと客車列車も相当数走っていました。

 

↑1987年4月号の時刻表です。客車列車が目につきます。余談ですが客車を使用した急行「丹後83号」なんていうのもあり、需要の旺盛さと、キハ58系も足りないことから波動用には12系等の客車も相当数使われていたことも分かります。

 

当時の山陰本線京都口の普通列車本数を纏めると…

↑約3分の1が客車列車であることが分かります。

 

当時の山陰本線京都口は保津峡新線が開業しておらず、まだ桂川に沿って非電化単線区間を行く状態でした。そのためJR化されたとは言っても旧態依然としており、大都市京都圏とは言っても国鉄時代の様相を色濃く残しており現在の姿からは想像もできない状態でした。

 

似たような例は福知山線の武田尾新線があり、こちらの単線非電化の渓谷を行く区間は1986年11月の福知山線全線電化に合わせて新線開業しました。これに対し保津峡新線は実は3段階に分かれており、まず1989年3月のダイヤ改正で新線が開業し、翌1990年3月に電化が開業しています。更にこちらは1989年3月の新線開業を前に列車増発を見越して京都駅の山陰線ホーム増設が1988年10月に行われ、これに伴い機回し線の関係から客車列車を極力減らす必要が発生しダイヤ改正が行われています。

 

2.1988年10月

 

山陰本線京都口近代化の第1弾として、1988年10月1日のダイヤ改正から京都駅に頭端式の島式ホーム1本(山陰3番・4番線)が増設されました。これにより機回し作業に制約が出ることからまずは客車列車の気動車化が進められることになりました。

 

1989年1月の時刻表です。1988年10月改正後のダイヤになります。客車列車は京都~園部間の3往復を除きいなくなっています! それでも残っているのが不思議ですが…。

 

 

列車本数を纏めてみます。

全体の運行本数は同じですが、客車列車が京都~園部の3往復を除き気動車化されています。これだけの客車を置き換えるには相当数の気動車が必要になるはずですが…。

 

では1988年10月1日時点での福知山・豊岡の気動車配置を見てみます。

 

↑豊岡の気動車は変化がありませんが、福知山のキハ58系が大量に増えています。3両のキロ28は不変ですが、キハ28は9両から23両へ14両の増、キハ58は13両から43両へ30両も増えており、福知山区のキハ58系合計では25両から69両と、2.7倍にも増えています。

 

しかもこれらの中には若番車や非冷房車まで含まれており、福知山区は従来は若番のボロばかりという印象でしたが1985年3月の急行「きのくに」廃止による和歌山からの後期車受け入れ、1986年11月の福知山線電化によって若番車を淘汰してきたのに、ここにきて再び若番車が集まってきてしまいました。ちなみにキハ47はわずか2両増のみです。

 

これらの増車は主に能登線廃止により七尾で余剰となった車でしたが、このほかにも各地で急行の減車により余剰となった車が数両ずつ転入しており、これらは転出先の中でも若番車を選んで放出する傾向があるため若番が集まってしまっています。一方受け入れた福知山では従来からいた車と転入車に分かれますが同じキハ58系であることから非冷房車やセミクロスシート車を除き運用の区別はされていなかったと思われ、JR化後直後は福知山・豊岡共にモデルチェンジ車比率がかなり高く急行「丹後」では最近発売されたKATOの製品のようにオールモデルチェンジ車編成も見られましたが、福知山区では平窓車が大量に増殖してしまったためオールモデルチェンジ車編成は確率的に発生しにくくなりました。

 

こうして客車天国であった山陰本線京都口は保津峡新線開業・電化前にキハ58系の普通列車だらけになってしまいました。

 

 

3.1989年3月

 

1988年10月に京都駅改良に絡んで客車列車の大幅な気動車化を行った山陰本線京都口ですが、早くも1989年3月には保津峡新線が開業しダイヤ改正が実施されます。つまり客車に代わり闊歩し始めたキハ58系の長編成の普通列車が旧線を行く姿はわずか半年のみとなってしまったわけです。

 

1989年3月の時刻表です

この頃のJTB時刻表は山陰本線は京都~米子で1ページなので見づらいですが、引き続き気動車メインで運行されています。保津峡が新線に変わりましたが時刻表上では判別できません。なおこのダイヤ改正に合わせて太秦駅が開業しています。さらに亀岡折り返しの普通列車が新設され運行本数が増えています。

 

列車本数を纏めてみます。

亀岡折り返しが新設されたことと合わせ、運行本数がかなり増加しております。しかし面白いのは3往復から2往復へ減ったとはいえ、引き続き客車列車が残置されています。これらは夕方に京都から園部へ下り、翌朝京都へ向かう2本のみになっており、京都駅の山陰線ホームで機回ししなくて済む運行になっていたものと思われます。

 

ここでこの時点での福知山・豊岡の気動車配置を見てみますと…

 

↑列車本数は増えましたがキハ58系の配置は逆に減っています。七尾から来た非冷房車キハ58・28は軒並み廃車され、また1988年10月の時点で福知山に来ていたキハ28 2008・2014は七尾へ帰っています。この2両は後に急行「能登路」用に整備されていますので、もしこの時に福知山に在籍したままであったら早期に廃車になっていたことでしょう。

 

 

 

1988年10月の時点では時刻修正のみで客車列車時代のスジをそのまま気動車化したような状態だったのですが、1989年3月のダイヤ改正では大幅な運用の見直しが行われたものと思われます。しかし増発されたにも関わらず気動車の数は減っており疑問に思うかもしれませんが、これは急行「丹後」「但馬」の減車が絡んでいます。

 

まずは1988年10月の時点での急行の編成表を見てみます。

 

↑1989年3月改正前の時刻表から編成表です。

 

次に1989年3月改正時の時刻表から編成表です。

 

これを元に編成両数を見比べてみると…

 

丹後1号:9両→8両

丹後2号:9両→8両

丹後3号:6両→6両

丹後4号:6両→6両

丹後5号:7両→7両

丹後6号:7両→7両

丹後7号:6両→6両

丹後8号:9両→8両

丹後9号:9両→8両

丹後10号:6両→6両

丹後11号:6両→6両

但馬2号:7両→3両G車なし

但馬3号:7両→3両G車なし

 

一部で減車が行われています。特に豊岡担当の急行「但馬2・3号」は大阪~豊岡を播但線経由で結び姫路~豊岡間は7両で運行されていましたが、改正後は全区間モノクラスの3連になっており、グリーン車も1運用減って1両廃車、キハ28・58の一部は福知山へ転じています。

 

これにより福知山区内で急行「丹後」の減車による余剰分活用、そして豊岡から「但馬」減車による福知山への転入があり、これにより非冷房車を淘汰しつつ増発を可能にしたものと思われます。

 

それにしても新線開業後の保津峡をキハ58系や12系の普通列車が1年のみ走っていたというのは意外としか言いようがありません。

 

 

4.1990年3月

 

この年の改正で山陰本線は京都~園部間の電化が完成し、これにより気動車・客車普通列車のほとんどが電車化されました。また電化区間が園部まででしたので、京都~福知山間の普通列車は基本的に園部で系統分離され電車から気動車への乗り換えが必要となりました。

 

↑1990年3月改正号の時刻表です。京都~園部間は原則全列車電車化され園部で乗り換えが必要になりました。「原則」と但し書きしているのは、下写真真ん中あたりに見えますが1本だけ直通の気動車が見えるからです。

 

これは「820D」という福知山発京都行きの気動車普通列車です。片道1本のみ園部を直通する普通列車が存在します。「なぜ!?」と思われますが、これは急行「丹後」が「11号」までの奇数本数しかないのと関連しており、上りの1本のみは普通列車として運用されていたことが分かります。この列車には当然キロ28が連結されていた筈ですが時刻表には普通グリーン車のマークは無く、締切非営業であったのか一般開放であったのかは分かりませんが恐らく前者なのであろうと思います。

 

これで福知山地区の気動車配置がどうなってしまったのかというと…


↑1990年4月1日時点での気動車配置です。なお同日付で宮津線が第三セクターの北近畿タンゴ鉄道へ移管されており、この直後には豊岡のキハ47が大量に余剰となって他区へ転出しています。

 

キハ58系については、福知山では改正前にキハ28・58が62両、豊岡にはキハ28・58が23両の合わせて85両いたのが、改正後は福知山ではキハ28・58が42両と20両の減、豊岡ではキハ28・58が12両と11両の減で、合わせて31両もの車がいなくなっています。キハ47についても福知山に24両いたのが16両と8両減で、豊岡は21両いたのが19両と2両減、向日町にいた16両はゼロになっています。また、3月31日付でJR宮津線運行が終了した関係で4月1日以降に豊岡のキハ47も11両消えています。これら大量に山陰本線京都口・宮津線関連で余剰となったキハ58系とキハ47は、一部のキハ58は廃車され一部のキハ47がキハ20系・35系の置き換えで姫路に転じたものの、その大半は米子地区に転じこんどは山陰本線中部の客車列車置き換えに転用されることになります。

 

このように、福知山区ではJR化当初から1988年10月に一気に大量のキハ58系が増加し、1990年3月で大量にいなくなるという激しい動きを見せました。これは山陰本線の駅改良・新線開業・複線化・電化が一度に行われず段階的に施工されたため、一時的に気動車普通列車を増発しなければならなかったという特殊な事情が絡んでいたのでした。

 

趣味的には、JR化直後の福知山は生え抜きの後期車が多かったものが、この車両増加のどさくさに紛れて変な車が大量になだれ込み、そしてこの後1991年3月のダイヤ改正で山陰本線園部~綾部のワンマン化が行われた際にキハ58系モデルチェンジ車がその任にあたることになってしまい急行用には1988年10月で福知山へ転入した各地からの寄せ集めが多く混ざったというのが非常に興味深いです。
 

ここで福知山に関係する興味深い車両を見てみましょう。

 

↑キハ28 2008 能登線転換で余剰となっていましたが1988年9月に福知山に転じました。しかし前述の通り1989年3月改正で急行の減車で余剰となり幸運にもまた七尾に戻りました。あの時福知山に残っていたら廃車されていたこと間違いなしです。

 

↑キハ28 2136 1988年9月に広島から減車・予備車削減で捻り出されて福知山に来ました。そして1990年3月の電化後は米子地区へ転じ、同地区晩年の2000年まで在籍しました。

 

↑キハ28 2183 この車も2136と同様小郡区から1988年9月に転入しました。そして1990年3月の電化後は米子地区へ転じ、同地区晩年の2000年まで在籍しました。

 

↑キハ28 2443 信楽線の転換、関西本線奈良~加茂間電化の影響で余剰となっていたところ1988年9月に福知山へ転じました。そして1990年3月の電化後は米子地区へ転じ、更に小郡へ転じてこのように黄色くなっていました。

 

↑キハ58 312 一時的に福知山へ集まったグループは比較的早期に廃車されるものが多く、私自身はあまり撮影できていません。この車は1988年9月に小郡より福知山へ転入し、1990年3月の電化後は米子地区へ転じ、更に岡山へ転じて2003年まで活躍しました。

 

↑キハ58 439 1988年9月に七尾から転入し、1990年3月の電化後も普通列車用として残っていましたが、1991年度で小郡に転じました。

 

↑キハ58 447 1988年9月に224・448・449と共に広島から転入しました。そして1990年3月の電化後は224・448と共に向日町に転じ波動用で使用されました。これはこの頃になると波動用車両についても12系客車から機動性の良いキハ58系に置き換える動きがあったからです。ただこの時に向日町へ行かずに残ってしまった449は1991年3月末で廃車になっています。

 

↑キハ58 7203(元467) 1988年9月に七尾から転入し、439と共に電化後も残留していましたが1992年に指定席用リクライニングシート化され7203になりました。この車は記録では七尾時代に近郊化改造されており、近郊化改造車が後にアコモ改造されるというレアなケースとなりました。

 

↑キハ58 564 1988年9月に亀山から福知山へ転入し、1990年3月の電化で米子地区へ移りました。同地区ではキハ58系末期の2002年まで活躍しました。

 

このように福知山から転出後比較的長く活躍する車もいれば、キハ58 598・601のように園部電化であっさり廃車になった車もいます。このあたりのどの車を残すか?という基準は良く分かりませんが運命の分かれ道になっているようで興味深いです。

 

このように1980年代後半のキハ58系は客車の置き換えで普通列車用として活用された例が多く見られ、この福知山のケースはその好例でした。そして1990年3月の園部電化で追われた車はキハ47と共に大挙して米子地区へ転属し、次に山陰本線中部の客車列車を置き換えてゆくことになります。

 

1990年代は客車列車が各地で次々と置き換えられる時期になり、機関車や客車ファンの方々にとっては「客レを追い出す憎きやつ!」という印象であったことは否めないと思います。このような点もキハ58系が最末期まで見向きもされなかった一因になっているのでしょう。

 

今回の山陰本線京都口は、わずか1年あまりの活躍と期間限定でありましたが大量のキハ58系が集まったという非常に珍しいケースでした。また電化前の保津峡新線を気動車普通列車が走っていたというのも、今の嵯峨野線の姿からすると想像が難しいです。この時期の記録は極めて少なく、客車時代の記録や電化後の113系が走っている記録は大量にあるのですが、気動車時代の写真は殆ど出てきません。客車が無くなってしまい見向きもされなくなってしまったのでしょう。この当時福知山で走っていたキハ58系の中には私がまだ当時の姿を未確認の車両も沢山混じっています。(キハ28 425・440・2313・2314、キハ58 102・215・236・243・296・426・435・449・504・537・598・601など) 何とか当時の写真を探し出して未確認の車両に1両でも会えるように色々探索の日々がまた続くでしょう。

 

今回は車両の運用範囲と配置・時刻表のネタでした。キハ58系の動きは当然その当時のダイヤ改正内容に起因しますが、「電化開業」「新車投入」「新列車設定」といった華々しいイベントに比べこのような運用の変更は情報として出てくることが少ないので、調べるのは苦労しますが紐解いて行くと面白いものです。

 

長文になりましたが最後までご覧いただきありがとうございました。それでは次回もお楽しみに!!

 

是非私のホームページ

 

http://kami-kitami.sakura.ne.jp/index.html

 

にもキハ58系各車の解説がありますのでご覧になってください。