時折、通り掛るJAZZ BARの店先に貼られたポスター。
この女性JAZZ SINGERの事を何も知らないけど、必ず立ち止まって見てしまう。
確信に満ちた歌手の表情に比して、観客の表情は、凄まじい緊張感に満ちている。
しかし、両者の心情は、この写真の表情が反転した中にあったんだろうな。
Monica Zetterlund (モニカゼタールンド)
この女性JAZZ SINGERの事を何も知らないけど、気になったので、聴いてみた。
小雨が降るように歌う歌手でした。
毎朝、鳥籠をベランダに出して
水入れの水を換えるのだけれど、
ただ換えるのもつまらないから、何も植えていない、
からからに乾いたプランターの土にその水を撒く、
という行為を日々の習慣に加えてみた。
数か月が経つと、
何も植えてなかった土に雑草が芽吹いた。
そうなると小さな水入れの水を撒くだけでは、
とても追いつかないので、
毎朝、雑草に530mlの水を撒く行為が、
日々の習慣に加えられた。
毎朝なので、今朝も撒いた。
天気が頗るいいので、窓を開放し、
グラナドスを聴きながら、成すべき事を為して、
再びベランダに出てみたら、綿毛をつけた
タンポポが太陽の向きとは逆の方を向いていた。
今朝の530mlからほんの数十分後の事である。
開け放たれた窓の向うで、
グラナドスが流れている。
クラッシック好きのタンポポを生まれて初めて見た。
増上寺である。見れば分かる。
が、話は少し込み入っている。
品川で男の知人と会っていた。
「男の知人」というのは、少し素っ気ないが、関係性としては、
「歯磨き粉とTシャツ」あるいは「靴ひもとコンビーフ」
の様な、要するに売り場が違う、
故に世界観が全く異なる関係性なので、
会っても期待感が得られない。
だから「男の知人」程度になってしまう。
せめて「スリッパとボールペン」位の接点があれば
うまく帳尻を合わせられるのだけれど・・・。
しかし彼は、車を運転して来ていた。
俺を家まで送ってくれると言う。
まあ、「気の利く男のなにがし」と呼んでもいい気分にはなった。
ただ、大門に届け物があるので、
少し遠回りにはなりますと釈明するが、
「全く問題なし」と快諾した。
移動中に彼が
「しかし、なんか、景気が上向きになる気配がないですよね、
どう思います、これから、大きな変革とかあると思いますか」
などと荒涼とした質問をするので
「そうだな、まあ、仕事っていうのはさ、例えば、
雪の積もった早朝の外を窓越しに見渡したら、
既に舗道の雪かきが済んでいて、だけど、
その作業をした人の姿は何処にもないっていう、
そうした姿なき作業っていうのが、本来の仕事だと思うんだ、
資本がいい仕事に対して投資するっていう理念に回帰
したら、そういう仕事に投資する時代になると思うよ。
名も無き資本主義って感じでさ、
だから、これからは、名も無き人の仕事が、
投資の対象になるんだ、要するに俺たちだ。
これからは、絶対に人に見られない、
鶴の恩返しみたいな仕事をすれば、将来は、安泰だ」
ここで大いに笑って欲しかったのは、言うまでもない。
でも男の知人は、
「それって、地道に働けって事ですよね、
それは、まあ、分かりますけどぉー、
なんか、こう特別な情報とか知りませんか」
といった調子なので、
やはり、売り場が違うなって思いましたよ。
暫くして、大門の交差点に差し掛かり、国道15線を左折して、
彼が車道の脇に車を止めた。15分程で戻りますと言う。
要するに、駐車違反監視員の監視の為に俺を乗せたらしい。
方法としては、正当だ。
フロントガラスの先に増上寺である。
ここでやっと、増上寺だ。
その門構えに圧倒された。
間もなくして彼が戻って来たので
「すごい門だな、なんだか、身が引き締まるな」
と言うと
「ホントです、時々ここに来ますけど、いつ見ても目を奪われます」
と目を輝かせていた。
奇しくも、増上寺の門で初めて彼との一致をみた。
まあ、それだけの話ではある。
「母さん、俺、東京に行こうと思う」
「東京なんかに行って何をするんだい」
「パテシエになろうと思ってる」
「パテ・・・ああ、左官屋だね、おまえね、
簡単にいうけど、ちゃんとした親方の
下で長い間の修行をしなけりゃあ
一人前になれないんだよ、ほら、
向いのヒデさん、あのひたぁー今でこそ
一人前の左官屋で腕もいいけど、
随分と長い間の修行をやって苦労
したんだよ、おまえみたいな、何を
やっても中途半端で長続きしない
ものが、厳しい修行に耐えられる
わけがない」
「そんなことないさ、自分で選んだ道
なんだから辛抱するさ」
「そうかい、だけど、左官をやるんだったら
何も東京までいくこたぁーないだろ、ヒデ
さんのところで修行したらいいじゃないか、
そうだ、明日の朝にでも、ヒデさんに相談
してみようかね」
「母さん、左官じゃないよ、パテシエだよ」
「そうやってね、なんでもかんでも横文字
にすりゃーかっこいいと思うのは、よくないよ、
母さん、そういうの、好きじゃないね,左官屋
は左官屋でいいじゃないか」
志を貫くには、どうしても、人と対峙し、
説得をしなければならない、それが、
基本なのだけれど、人にもよる。
相変わらず、早起きをしている。
うっかりすると、寺の坊さんより早いかも
知れない。
しかし、絶対的幸福を追求するとか、涅槃
に至るとか、そういう超人的な修行をしている
訳ではなく、歌を歌ったり、ギターの稽古をしたり、
曲を創ろうと試みたりする時間にしている。
今朝は、ヘッド・フォンを付けて、フランク・シナトラ
の「Fly me to the moon」をシナトラの歌に近づくまで
歌い続けた。熱心な人だった。
何度か歌う内に、ほんの一瞬だったけど、彼の歌との
対話が成立した様な感覚があって、それは、何と言うか、
シナトラの思考手順に沿って自分も同じイメージを描いた
様な共視だった。
村上春樹が翻訳した「レイモンド・カーヴァー」の小説に
「大聖堂」というのがある。
盲目のロバートにテレビ画面に映し出された大聖堂の形
を説明するため、主人公は自分の手の上にロバートの手を
重ねて、紙とペンで大聖堂の絵を描き始めた。
やがて、盲目のロバートが、主人公に目を閉じて描くように
提案する。そうやって続けてゆく内に、主人公の手は、
ロバートの誘導に従って大聖堂を描いていた。
あれから、一週間が過ぎた。
何から一週間が経過したのか、今では、
世界中の人々が承知している。
人類の共通した記憶になっている。
モーツアルトは、オレンジを見ても、食べずに作曲してしまう人
だったらしいです。
自由な人なのでしょう。
自由な人は、原因と結果の連鎖に、自分が組み込まれる事を
避けます。
オレンジを見て食べたくなったり、食欲をなくしたりするのが、
原因と結果の連鎖なので、
主体である自分が受動的になってしまうから、
それを避け、オレンジという情報から、
能動的に創作を選んだのでしょう。
自由であるという事は、
オレンジを早く食べなければ腐ってしまうといった
連鎖から逃避するという事なので、
~あそこで互いに手を取り合おう~
という曲に還元出来るのです。
濃厚なオレンジ・ジュースです。
受動的ではなく能動的であるためには、
どうしても感性を発揮しなければなりません。
巨大な地震。
圧倒的な力になす術もなく立ち止まった時、
想定される限りの最悪な事態が浮かんだ。
調布駅前を歩いていました。
コンクリートの地面がウォーター・ベッドの様に揺らいで、
道行く人々は、絶句したまま周囲に気を配り、その瞬間の
訪れに備えていました。
TVで観る映像は、想定される限りの最悪な事態を
はるかに凌駕していた。
リビア情勢一辺倒だったCNNの報道は、日本の情勢
を24時間体制で伝えている。
日本に滞在しているアメリカ人のインタビューが
報道されていました。
「日本の人々は、驚くほど冷静でした。これは、日本人が
地震に慣れているだけではなく、訓練が行き届いているから
だと思えます。私は彼らの動きに合わせていたので、パニック
に陥らずに済みました。訓練された人々を見ていると、自分も
冷静になるものなのです」
世界中がこの事態の行方を見守っている。
余震が時折、感じられる。
知る人の状況が確認出来た。今はそれだけでいい。
やまざくら…。
どうもいい俳句が浮かばない。
「われおもう ゆえにわれあり やまざくら」
これは、デカルトの句だ。いや、少し違うか・・・。
まあ、どうでもいい。
折れた肋骨のような楽器を握りしめながら、
どう足掻いても、今日のライブあるいはギグで
吹かなければならないブルーズ・ハープが、全く
習得出来ていない現状から逃避あるいは跳躍する
ために、発想の転換を試みている。
というのは、どの道、聴衆者を魅了する演奏は出来そうに
ないので、アフター・ケアと云うのか、演奏に区切りが
ついて、スーッと引いてゆく無残な雰囲気を予測して
演奏後に静まり返った場を盛り上げる花鳥風月な俳句を
披露して、納得させたいと企んでいるのだけれど、
それも満足な発想が浮かばない。枯渇している。
先月のライブあるはギグの後に、演奏中に眠ってしまった
ギターリストの斎藤ヒロカズに「次回はさー、アドリブで
ブルーズ・ハープを吹きまくる積りだから、君もアドリブで
対応しろよ、フリーダムな演奏をやっちゃおうぜ、な、」
などと、公言してからこっち、全くブルーズ・ハープの技巧
が進展しないまま、今日に至った。
何も無かった事にしたい。
今日がライブあるいはギグではないと思いこみたい。
人間は、思い込み、錯覚の生き物であるから、そう思えば
そうなるのではないのだろうか。
実は、今日という日は、ディズニーランドで娯楽三昧をやらかす
日で、トロッコに乗って巨雷神の山を疾駆したり、
海賊達の淫猥な行為を小舟に乗って見学する
勝手気ままな日なのであって、
何も憂いや焦燥感や夜泣き、疳の虫を覚える日ではない。
いや、そうなると、場所が場所だけに、
ネズミの耳を被って歩きまわらなければならない。
恥ずかしい。そんな恥辱は味わいたくない。
やはりディズニーには行きたくないな。考えただけで鬱屈する。
出来れば、未完成でもいいから、ライブあるいはギグで、
折れた肋骨のような楽器を握りしめて、挑戦者になりたい。
「You Shook Me」や「Father Up The Road」のブルーズを
歌って、ハーモニカを吹きたい。
そんな訳で、時間ギリまで、特訓します。
特別な事は何もないのだけれど、久しぶりにワインを買ってみた。
去年の暮に、友人とワインを持ち寄って飲み比べをした時に、持参した物が
頗る評判がよかったので、その時と同じ産地、同じ年代のワインを購入。
フランス・ボルドーの2007年。安くて、どこにでも売っているようなワイン。
友人が持ってきたワインはイタリアのワインで、これも旨かった。
最近は、イタリア・ワインが人気あるのかな。
正月に帰郷した時、フランス料理のシェフをやってる弟がイタリアのワインを持ってきて
「イタリアがいい、イタリアが旨い」などと発泡酒の宣伝文句みたいな事を言って、
フランスに全く無関心な様子だったけど、まあ、フランス人でもないのだから、限界は
あるよね。なんか、分かる気がする。所詮、俺たち、風林火山だし。
フランスワインは素直に喉を通ってゆくので、思わず寡黙になってしまう。
一人きりでこの想いに浸りたいと思う。
でも、この後、急激にストーリーが展開する。
コルクを抜いた直後は、何と言うか素直でサラリと流れてゆくのだけれど、
外気に触れた瞬間から、ワインが微妙に酸化し始めるから、次に飲んだ時は、
喉を軽く引っ掻くような抵抗を始める。
「あの、イメージだけで判断して欲しくないんですよね」
みたいな主張が始まるので、こちらとしても
「もちろん、それを承知でコルクを抜きましたから」
などと受け入れ態勢を整える。
これ以降は、ワインの変化にただ頷くばかり。
「いやー、ほんと、ピザなんか食べてる場合じゃないよね」とか
「いい感じで酸化・・・いや変化してますね」
などと呟き、ワインの移ろいを讃える。どうかと思う人に自分がなっている。
まあ、酔っ払ったんだね。
大抵は一本飲みきれないので、コルクを押しこんで冷蔵庫に入れて、
翌日に持ち越すのだけれど、その頃には、もう、フランスって事でもなくなって、
「早いとこ飲み切って下さいよね、みっともないから」と親しみ深いものになっている。
やっぱり、ワインは愛おしい。
乳白色の空が「そろそろ頃合いかと思いまして」などと苦笑しながら
白い物を落してきました。
このところ版で押したような生活が続いていたので、気分転換に
いい日ではある。
雑然とした本棚から宮沢賢治を引き出して、闇雲に開いたら、
「よだかの星」が当たったので、「そうきたか」などと呟いて、
苦笑しながら読んだ。
醜いと揶揄され、羽虫やかぶと虫を食べてしまう自分自身の
存在を嫌悪し、太陽や星に救いを求めるが「分不相応」と
拒絶され、力を落し、地上に向けて落下してしまう。
しかし、地面に叩きつけられる一寸で身を翻し、燐のように青く
燃え、空高く舞い上がり、星となって燃え続けた「よだか」
彼は、一寸手前で何を見て、何を感じたのだろう。
それは、「よだか」にしか分からない。
しかし、そういう感性は誰の心にも宿っているのだろうとは思う。
ただ、定説や既成概念に囚われて、開く術を見出せないのかも知れない。
すぐとなりは、カシオペア座でした。天の川の青白い光が、すぐうしろに
なってました。
そしてよだかの星は燃え続けました。いつまでもいつまでも燃え続けました。
今でもまだ燃え続けています。
この最後の文は、口ずさむに値する名文だと思う。
少し、気分転換をしに出掛けてみる。