白南風のブログ
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白南風に吹かれて「東京タワー」

 

 

 

 

東京タワー。

 

 

夕刻、事務所を出て近くの酒場に出かけた。

 大門の交差点を曲がり、増上寺の総門である芝大門

近くの雑居ビルに入った。その酒場の窓から、天を

いた東京タワーが見える。帳の降りた空で、真っ赤

タワーがオレンジ色に輝いていた。

仕事帰りに大門で呑むことはまれだが、その酒場の

その景色が好きで、時々顔を出す。なかなか風景で酒

を呑ませる店はない。だから、早く来ないとすぐに満

席になってしまう人気店である。

酒はあまりつるんで呑むことはない。そもそも、私

は友人と呼べる人間があまりいない。だから、毎晩の

ように酒場の暖簾を潜るが、毎回一人で呑むことが多

い。まあ、馴染みの酒場へ行けば、だいたいが知って

いる顔なので、それほど困ることでもないのだが…。

 

中国の格言に、こんな言葉がある。

「君子の交わりは、淡き水のごとし…」

賢者と言われる人間の人付き合いと言うものは、他

人の生活に深入りしないものである。仲の良い人間関

係を保つなら、水のようにあっさりと付き合いなさい

…。という、古き中国の「荘子」の教えは、いまにも

通じるものがある。

荘子はその後、こうも言っている。

「小人の交わりは、甘きこと醴のごとし」

つまらぬ人間との付き合いは、まるで甘酒のように

甘く、濃密な関係にも見えるが、そんな甘い関係は永

くは続かないものである…。

けだし名言である。夜の酒場では美味しい酒を喉に

流し込むように、淡い水のような空気が流れている。

 

人間は一人で生きてゆくことはできない。だから生

きている限り必然的に誰かと関係を持つことになる。

夫婦関係でも同じことが言える。煩わしいが、そこは

頭を使って「淡きこと水のごとし」の極意で生き延び

なければならない。

それが日本人だけならまだ何とかなるが、異国の人

との付き合いはもっと面倒である。そこに国民性とか

宗教とかが交じり合うと、もう手に負えない。

いつだったか、ハワイで現地の人間と親しくなった

が、親しくなればなるにつれ、相手は無理な要求をし

てくるようになった。

…ワタシはあなたのためにここまでしたのだから、あ

なたはワタシと付き合う義務がある…。

そんなことを言われ、ダウンタウンの怪しいバーで

朝方まで付き合わされた記憶がある。

その時以来、海外では「君子の交わりは、淡き水の

ごとし」で過ごすことになる。もっとも、それほど語

学力があるワケではないので、問題はないのだが…。

 

最近は「異文化コミュニケーション」とやらで、海

外に留学する人も多いと聞く。「君子の交わりは淡き

水のごとし」と、まるで反対の領域にいる文化である

が、そのコミュニケーション力を養う一つの方法にが

「留学」なのだろう。やはり目的があっての留学は、

そのモチベーションの持ち方も変わってくるのだろう。

留学と言っても、数週間とか、一、二か月の留学は

留学でない。それは旅行に毛の生えたようなものであ

る。何かの目的を達成するには、やはりそれなりの時

間を要するものである。

仙川の、とある馴染みの酒場の常連さんに、若い女

性が時々やって来る。名前はKちゃんという。Kちゃ

んは学校の先生をしていているが、とても大人しい女

性である。ちょっと天然系もあるが、大きな声を出す

こともなく静かな佇まいでお酒を愉しんでいる。

そんな静かで大人しいKチャンは、フランスに音楽

留学をしていた。それも数年間だという。大人しくて

人付き合いが苦手なように見えるKちゃんだが、フラ

ンス人と上手くコミュニケーションはとれたのだろう

か。モチベーションの持ちようで、人間は変われるの

だろうか。

 

私の古い友人にナカオという人間がいる。

大学を卒業するとすぐにアメリカに移住し三十年以

上もロスで暮らしていた男だが、ナカオにはどんなモ

チベーションがあったのだろう。 

 意志は豆腐よりも柔らかく、それほど高尚な目的が

あったワケではないナカオは、アメリカで三十数年暮

らした後、今はマレーシアで日本企業の支店長をして

いる。

 いろいろ考えたが、ナカオに人生の目的はないよう

に思う。目的がないのだから、モチベーションなどあ

るワケもない。風まかせ、運まかせ、出たとこ勝負の

「フーテンの寅さん」なのである。

ナカオに「君子の交わりは…」と言っても始まらな

い。私にはできないことだが、まあナカオのような人

生も、ありなのかと思う。

 

 また取り留めのない話になってしまったが、最後の

グラスを開けながらふと考えた。

 人生にはいくつかの分かれ道があり、もしあの日、

あの時、もう一つの選択をしていたら、また今とは違

う人生があったのだろうか。素直に「はい」と言える

性格であれば、また違う人生が待っていたのだろうか。

今となっては、とっくのとんまに人生をリセットする

ことなどできるはずもないが、タワーを見上げながら

大きなため息が出た。

 

 店を出て、ふと立ち止まりタワーを見上げた。

クリスマスシーズンだからか、タワーがライトに浮

かび上がりオレンジ色に輝いている。その下を、どう

してこんなことになってしまったのか、と舌打ちしな

がら歩いている自分がいる。

白南風に吹かれて「月と音楽と野球と。」

 

 

 

 

 

 

月と音楽と映画と。

 

 

大きくて真っ赤な月が、ポカンと浮かんでいる。

遠く、新宿の高層ビル群の横から上がった月は、そ

ろそろ師走を迎える東京の空の、薄い雲がかかった東

の空に煌々と浮かんでいた。

まんまるお月さんが熟したトマトのように真っ赤な

のは、後ろに沈んだ太陽の光を受けてのことである。

沈んでもなおその威光を月に残す太陽が、古代の人

々の心を虜にした理由がよく分かる。地球の向こう側

に姿を消した王様が、お月さんに魔法をかけて真っ赤

に染めた。

 

いつも見るお月さんよりも、幾分月のサイズが大き

い。スーパームーンと呼ぶそうな。正確に言うと、東

京のスーパームーンはお天気が曇りだったので、その

翌日の夕刻のスーパームーンを観ていることになる。

去年もそんなお月さんを観たような記憶があるが、

毎年のことなのだろうか。

地球を周回する月の軌道がやや楕円であるために、

大きくなったり小さくなったりするのだそうで、今宵

の月が一番大きく観えるようだ。

 

こんな夜は、やはりジャズのスタンダード・ナンバ

ー「ムーンライト・セレナーデ」がお似合いである。

グレン・ミラーが、1950年代に世に送り出したスイ

グ・ジャズの名曲である。回転するレコードに針を落

とすと(古いね)、クラリネットのイントロが始まる。

「パア、パパア、パパア…♪…」

続いてトロンボーンが後を追い、トランペットが哀

愁を奏でる。

遠い記憶が蘇る。

映画「グレン・ミラー物語」は、たしか学生時代に

観た記憶があるが、はてどこで誰と観たか…。記憶の

糸を手繰り寄せ、映画館の隣の席に座った女性を思い

出してみたが、いったい誰だったのか。

哀愁のメロディに、顔の見えない少女の姿が重なる。

中身のない頭でっかちの青二才が、どんな口実で若い

女性を映画に誘ったのか。口先だけの、いま訊けば赤

面するようなセリフを並べたに違いない。いい加減な

男だったのだろう。なにせ自分のことだから、よく分

かる。

若気の至りと言ってしまえばそれまでだが、もし今、

その当時のシーンを見たら…。想像しただけでも恥ず

かしくなってくる。穴があったら、入ったまま出てこ

ないのではないか。

 

メジャーリーガーに、「ムーンライト・グラハム」

と言う選手がいた。ムーンライト・セレナーデの後は、

ムーンライト・グラハムの話がいい。

彼には哀しい記録が残されている。

…デビューは1905年、ニューヨーク・ジャイアンツ

戦。八回に外野手として1イニング守備につき、打席

には立っていない。

1試合それもたった1イニングの守備につき、自分

打席を迎える前に試合は終了。そして打席に立たな

いまま、グラハムは翌年に引退する。

…どれだけ打席に立ちたかったか…。

…どれだけバットを振りたかったか…。

その後、医師の道に進み、ミネソタの田舎町で医者

として一生を終えるが、エンサイクロペディア(大リ

ーグ選手名鑑)には「ムーンライト・グラハム 1

0打数0安打0打点、打率000厘」と記されている。

 

アメリカの作家WP・キンセラが著書「シューレ

ス・ジョー」に掲載し、その後映画「フィールド・オ

ブ・ドリームス」にこの話が登場するのはあまりにも

有名である。映画では名優バート・ランカスターが、

晩年のムーンライト・グラハムを演じている。

霧のかかった月夜の街を散歩するムーンライト・

グラハム。彼の心残りは、たった一度メジャーの打席

に立つこと。

…私はメジャーリーグで打席に立ったことがない。一

度でいいから立ちたい。ピッチャーをにらみ、彼が投

げる構えに入ったらウィンクする。球を打ったときの

腕の感覚。二塁でとまらず、果敢に頭から三塁に滑り

込みベースを腕で抱き込む…。これが私の夢だよ…」

 

しかしまあ、アメリカ映画の凄いところは、よくも

そんな記憶にも記録にも残っていない選手を見つけ出

し、映画の中に放り込んだものである。

 

月が浮かんでいる。

グレン・ミラーもムーンライト・グラハムもとうに

この世を去ってしまったが、彼らもきっと観たであろ

う、美しい満月が平成の夜空に浮かんでいる。

滅びゆく運命、儚きさだめを象徴するように、月が

浮かんでいる。

白南風に吹かれて「風に吹かれて」

 

 

 

風に吹かれて…。

 

 季節は、あっと言う間に通り過ぎてゆく。

 仕事場でずっとパソコンの画面ばかり見つめていた

視線を、ふと窓の外に移すと花の色も太陽の輝きも住

宅街の風景も、すっかり秋の装いに代わっていた。

 仕事にかまけていると、季節の移り変わりにさえ気

付かない。なんとも、つまらない男になったものである。

 光陰矢のごとし…、とはよく言ったもので、つい最近

まで蝉が鳴いていたとばかり思っていたら、先程テレ

ビで「富士山が初冠雪を記録した」というニュースが流

れていた。

 年齢を重ねるごとに、時間は疾風のように過ぎ去っ

て行くものであると言う事は分かっているのだが、余

りのスピードにカラダが拒絶反応を起こしている。ゆっ

たりと時間が流れていた少年時代が懐かしい。

 

 時代は、あっという間に忘却の彼方へ飛んで行って

しまう。

 最近のテレビは詰まらないのであまり観ないのだが、

それでも何もすることがない夜はたまに画面をボンヤ

リと観ていたりする。

 「あの人は今…」的な番組をやっていた。数十年前

に有名だった俳優などの「今」を紹介する番組である。

何が愉しいのか分からないが、家内はこういう番組が

好きなのだ。

 何気なく観ていたのだが、驚いたことに私はその番

組や役者のことをまったく知らなかった。家内によると、

誰もが知っているような有名な人らしいのだが、私は

その名前も知らなければ顔さえ見覚えがなかった。

…エッ、アナタこの人も知らないの…。この番組も、こ

の俳優も…。

 家内が「バカじゃないの」と言わんばかりに、呆れた

顔をして私を見た。

 

 家内の態度にもびっくりしたが、そんな驚くようなこ

となのか。顔も見覚えがないと言うことは、たぶんテ

レビを観ていなかったのだろう。

 まだ、若い時分だったから、何か他に夢中になれる

対象があったのだろうが、当時の私は、いったいどこ

で何をしていたのだろう。

 少し心配になってきたが、家内がまだ何か言いた

げなので早めに切り上げて仕事場に戻った。えらい

昔に走っていたお馬さんの名前なら全部覚えている

のに、どうして有名な俳優さんを知らないのだろう。

 ん?待てよ、なんでそんなことで、家内にバカにさ

れなきゃならんのだ。そのことに腹が立った。

 

 そろそろ、落葉樹が葉を落として裸になり始める季

節である。

 花もそうだが、森羅万象生きとし生けるものは全て

土に還るものである。“還る”という言葉は、もともと

あった場所に戻すと言う意味であるらしい。土に還

すと言うのは、土に返却するということなのだろうか。

 それは人間も同じで、人生とは余計なモノをそぎ

落としながら、最後は骨となって風に乗り大地に還

って行くものである。人の人生とは、木や花と一緒

である。

 有機物が分解され土壌の一部となり、朽ち果てて

大地に還ってゆく。命あるものは、すべて土に還って

ゆくのだろう。

 

 それでも秋桜が風に揺れ、山茶花が白い花弁を開

き、寒椿がちいさな蕾を付けた。冷たい冬に向けて、

花々たちが最後の花期を愉しんでいる。

 路地の奥の小さな花壇に咲いた、シクラメンの赤い

花弁が霜降り月の雨に濡れ、まるで化粧をした若い

女性のように、しっとりと笑っていた。

 こちらは球根植物なので、来年の夏を越せばまた

芽を出すのだろうが、毎年やって来る花期をどのよう

に感じて咲いているのか、何かセンサーのような部

品があるのかと、花に近づいて声を訊こうとするが、

俯いたままである。奥ゆかしい花は照れ屋なのだろ

うか。

 

 話は飛ぶが、ボブ・ディランである。

 ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。しかし、

受賞したにもかかわらず、ずっと沈黙を守り続けてい

た。

 奥ゆかしいとか照れ屋とは少し違うが、さすがボブ・

ディランである。ノーベル賞のような世界的権威の賞

にも見向きもしない。さすが吟遊詩人、さすが革命児。

さすが反戦レジェンド…。それでこそボブ・ディランだ。

そう感じた人は少なくないはずである。

 そもそもダイナマイトを発明した武器商人のような

人間の作ったノーベル賞など、「オラいらね」と言うの

かと思いきや。ところが最近、受賞に前向きなコメン

トを発表した。

…言葉を失うほど名誉である…。授賞式にも出席し

たい…。

 ん?

 なんだ、貰うんだ、ボブ・ディラン。そうなんだ、フー

ン…。それもまたボブ・ディランなのである。

 ちなみに、このブログのタイトル名である「白南風

に吹かれて」は、彼の名作「風に吹かれて」から拝

借した名前である。

 季節は流れ、風に吹かれて窓の外を枯葉が吹き

抜けた。

 

 

白南風に吹かれて「夏の匂い」





夏の匂い。



 

仕事帰りの電車の中で、浴衣姿の女性を見かけた。

花火大会にでも行くのだろうか、ドアの近くに立ち

静かに外の景色を眺めていた。

まだ、二十歳を少し過ぎたばかりだろうか。同じく

らいの歳の女性が座席に座りスマホに夢中になってい

る姿と比べると、紺の地に薄紅色の睡蓮の花をあしら

った浴衣が、どこか大人の雰囲気を醸し出している。

 

これから恋人と逢うのだろうか…。

いらぬ詮索であるが、好きな人と逢える“一途な思

い”が女性の表情から伝わってくる。恋する女性の思

いは、その立ち居振る舞いにすぐに表れるのかも知れ

ない。

一途で真っ直ぐな思いを乗せた電車が、夏の多摩川

を渡ってゆく。

好きな人と逢えるまでの時間は、一途な思いが募る

時間でもある。電話もメールもいらない。心の中で募

る思いが膨らみ、彼女の恋を大きく育ててゆく。

正面のドアの窓ガラスを見ると、闇の中に女性の凛

とした顔が浮かんだ。窓ガラスの中で視線が重なった。

一瞬、女性の顔が微笑んだように見えたが、気のせい

だろう。幻想的な睡蓮が、ほのかな香りを漂わせて窓

ガラスの中で揺れている。

 

季節には、移り替わる目安みたいなものがある。

それは、空の色だったり浮かぶ雲だったり、お月様

だったり、咲く花々だったりする。ここ数日、そんな

周りの様子を窺っていると、夏が終わりそうな気配を

していた。

台風が続けて日本列島を襲った後、久しぶりに夏の

太陽が顔を見せた。陽射しはまだまだ強いが、それで

も陽が落ちれば辺りは秋の気配が漂う。

隣家の花弁のちじれた紅色の花をつけた百日紅の木

に、帰り道を忘れた一匹のアブラ蝉がとまり、鬼の首

をとったかのような声で鳴き叫んでいる。夏の終焉を

認めたくないのだろうか、かなりの音量である。その

鳴き声に押されるように、東の空にそろりと真っ赤な

月が顔を出した。

 

酒場に行く途中に住宅地の庭で、月に照らされたい

くつものオシロイバナが桃色と白の花を開いていた。

またの名を「夕化粧」と呼ばれるオシロイバナが、

月の灯りで艶っぽい。風流な名のついた花だが、近く

に寄ってみると大人の女の香りがした。夕化粧は、月

が咲かせる夜の花なのである。 

 セクシーな女性の香りがするといわれる夕化粧だが、

よく考えると子供の頃、近所の原っぱでよく嗅いだ匂

いである。

 

オシロイバナではないが、その季節になると、必ず

咲き誇る花々に安堵する自分がいる。なぜだろうか。

自分があまり約束事を守らないからだろうか。「ホラ、

マタサイタヨ」と、毎年咲く花々に安堵しているのは、

決して歳のせいばかりでもないだろう。

しかし、花は「人間の目を楽しませてあげよう」な

どとは、これポッチも思っていない。それは人間が勝

手に鑑賞しているだけで、花にすれば単に己の生を全

うしているだけである。

どんな天変地異が地球を襲っても、その時がやって

くれば花弁を開く花に、私は憧れる。

 

深夜、仕事場の窓から明るい星がポツンと観えた。

北極星だろうか。外に出ると右の空に下弦の月、左

の空に夏の大三角が昇っていた。なかなか豪華な顔ぶ

れの天体ショーである。

周りの家々は灯りが消え、静寂が辺りを包み込んで

いる。部屋のラジオからジェット・ストリームの「ミ

スターロンリー」が聴こえてきた。

 郷愁を誘うようなメロディに聴こえるのは、若い時

からずっと聴いていたからだろう。 

深夜零時。

メロディと風景が重なると、なぜか人間は感傷的に

なってくる。星を眺めながら想像してみた。世界中で、

いったい何人の人が夜空を見上げ、星に思いを馳せ、

物思いに耽っているのだろうか。

世界中のいたるところで、様々な人間が生きている。

そのすべての人間がシアワセに暮らしているワケでは

ないだろう。悩みや苦しみ、哀しみを抱えながら生き

ているのが実情だろう。

それでも、森羅万象この世に存在するすべてのもの

は、自然の法則で動いているものである。花のように、

月のように、星のように…、である。

夏がゆっくりと去ろうとしている。


白南風に吹かれて「怠け者の盆働き」






怠け者の盆働き。


 

 

遠くで花火の音が鳴っている。

花火と言えば週末のイベントというイメージがある

が、はて週末でもないのにどこで打ち上げている花火

だろう。

バルコニーに出て周囲を見渡したが、それらしき姿

もなく音の出所も見つからない。

夏の夜空に咲いた、鮮やかな大輪を想像する。過ぎ

ゆく夏の「あだ花」のような花火であるが、盂蘭盆会

(うらぼんえ)の情念を乗せた大輪が遠くの闇で踊り

狂っている。

 

…今年は帰って来れるのかい?

 毎年、お盆の時期になるとかかってきた母からの電

話が、今年はない。

大病を患い、今は施設に入る母を時々見舞いに行く。

病状は安定しているが、やはり年齢的なこともあり回

復は難しいようである。

 目を開き一点をじっと見つめている。意識はあるが、

会話をするこことは難しい。そんな母を見ていると、

どうにかしてあげたいのだが、結局母の手を握り声を

かける以外に手立てはない。

顔を除いて、声をかける。

…母さん、分かるかね。私だよ。

名前を告げると、じっと私の顔を見つめている。不

思議そうな顔をしている。誰かを思い出そうとしてい

るのか。しばらくすると、母の瞼から涙が一筋零れた。

母は理解している。

…そうか、分かるかね。そうか、そうか。

 瞼の涙を手で拭った。温かな人肌の頬だった。

母の心情を思うと辛くなるが、生きているだけでもい

い。生きているだけでも、子供にとっては救いである。

 

子供の頃、母と過ごした「盂蘭盆会」がやってきた。

要するにお盆である。日本全国すべての家族が、夏

の夜の同じ時間に、同じ風習を行う盂蘭盆会。

都会に住んでいるとなかなか身近に感じることがで

きないが、地方から出てきている人間にとって、やは

り「お盆」とは特別な時間なのである。

だから、およその地方出身者は、どんな渋滞や混雑

が待ち受けようが、さも昔から決まっていた家訓を守

るかのように田舎を目指すことになる。

家々の前で、祖先の御霊が迷うことなく帰ることの

できるようにと迎え火が灯る。仏壇には盆提灯が揺れ、

大渋滞を抜けて帰省した家族とともに、御霊との安ら

かな時間が流れる。

そして、家族とともに過ごした御霊は、盆が明ける

と再び送り火とともに天国へと帰ってゆき、盂蘭盆会

は滞りなく過ぎてゆく。

…ドーン…、ドンドン、ドーン…。

 また、遠くで花火の音が鳴った。いくつもの御霊が、

大輪となり夜空に吸い込まれてゆく。

 

お盆休みのせいか、仙川の街が静かである。

人通りも少ない気がする。みんな、田舎に帰ったり、

山や海で楽しい夏休みを過ごしているのだろう。

どこにも行けない怠け者が、仕事を抱え、問題を抱

え、ついでに頭も抱えて仕事場の机に向かっている。

日頃のグウタラのツケが、いっぺんに回ってきたの

だろう。神様も厄介ごとは小出しにしてくれればいい

ものを、まとめて出してくるから始末に負えない。

ひどい仕打ちをするものだと、舌打ちしながら机に

向かっている己が情けない。

多くの人が休みとなる盆に限って、忙しげに働きま

わる人のことを揶揄して「怠け者の盆働き」と表現す

るが、それとは意味合いが違う。

私に場合は、自業自得の「怠け者の盆働き」なので

ある。

 

「怠け者の盆働き」の原因は、もう一つある。

そう、地球の真裏で始まったリオ・オリンピックで

ある。ブラジルは地球の反対側である。反対側という

ことは、昼と夜が真逆なのである。当然、競技種目は

日本時間の深夜から早朝に集中している。

昼は仕事場に出かけ、ある時は酒場の暖簾を潜り、

またある時は睡眠を取り、そしてオリンピックに集中

する。昼も夜もないこんな生活をしていれば、「怠け

者の盆働き」になるのは必然の法則である。

…誰だ、こんな状況にしたのは。

誰かに文句を言おうとしたが、原因は己の怠け癖に

あった。

 

盂蘭盆会の夜空に、煌々と満月が揺れている。迎え

火に見た月はまだハーフムーンだったが、送り火の夜

に見上げたら満月に近い月だった。千切れ雲がいくつ

か浮かぶ夜空に、涼し気なお盆の満月。なかなか風流

な風景である。

これと同じような景色を、信長も秀吉も、ガリレオ

もソクラテスも、きっと見たのだろう。そう考えると、

頭上の月が凄い存在に思えてきた。まさしく、誰もが

見上げた夜空のスーパースターである。

…夏は夜、月の頃はさらなり、闇もなほ…。

有名な「枕草子」の冒頭が浮かんだ。

清少納言が、たぶん京都御所から見たであろうこの

月は、ハーフムーンだったのだろうか、それとも満月

だったのだろうか。

天上のお月さんに声をかけた。

…イヨッ、スーパースターのお月さん。あの月は満月

だったかね、それとも…。

…ヒマナノネ…。

 お月さんが、呆れた顔で答えた。

…あんただって、一人ぼっちで寂しいだろうに。

…ナニイッテルノ。ネムルヒマモナイノヨ。

…どうして…。

…ダッテ、アサニナッタラ、ブラジルノヨルヲ、テラ

スバンナノ…。

盂蘭盆会の夜は、ゆっくりと穏やかに流れてゆく。


白南風に吹かれて「僕のタイヨウ」






僕のタイヨウ。




この世には、不思議な名前の人がいるものである。

一見しただけでは、ナンノコッチャというワケの分

からない苗字がある。もちろん、読める人はいないだ

ろう。しかし、その言葉の由来を訊くと「なるほど」

と思わず膝を叩きたくなるような苗字がある。

そんな名前に出会うと、日本人の想像力は粋で洒落

に溢れていると思わずにはいられない。

ホントにそんな苗字の人がいるのか、と思うような

不思議な名前がある。



…小鳥遊。

れっきとした苗字である。「タカナシ」と読むそう

な。その心は、小鳥たちが遊んでいられるのは天敵で

ある猛禽類の「鷹」がいない状況にある。したがって

小鳥遊は鷹がいないので「タカナシ」と読むのである。

…ウマイ、座布団一枚出して!

 まるで、落語の大喜利のようである。


漢数字の「一」が苗字の人もいる。読み方は「ニノ

マエ」である。そう、分かったあなたは勘がいい。一

は二の前なのでニノマエ。

初めから「イチ」という呼び名でいいと思うのだが、

なぜそんなややこしい呼び方にしたのだろう。

 そういえば、小学生の頃の知り合いに「一」「二」

「三」という名前の兄弟がいた。これは名前だったが、

読み方は「はじめ」「つぎ」「すすむ」だった。親父

さんは教師で体育の先生だった。ホントだって…。


数字の苗字は他にも「九」がある。キュウではなく
「イチジク」と読む。これは「無花果(いちじく)」

ら来たのかと思ったら、そうではなく「一字で九」

から、イチジクなのだとか。洒落なのだろうが、な

だかトンチのようで面倒になってくる。



「月見里」という、風流な苗字もある。これは、想
像力がかなり豊かでないと読めない。「月見里」と書

いて「ヤマナシ」さん。月を鑑賞するには、周りに高

い山がない方がいい。だから山の無くてお月さんが良

く見える「月見里」と書いて「ヤマナシ」と読んだの

であろう。

月を生活の一部と考えてきた、日本人の感性が創り

出した名前である。


調べてみると、日本全国には約二十七万もの苗字が

あるのだそうな。中でも一番多い苗字が、言わずと知

れた佐藤さんと鈴木さんである。

 同じように、アメリカで一番多い苗字はスミスさん

である。以下、ジョンソン、ウィリアムス、ジョーン

ズ、ブラウンと続く。

スミスとジョンソンは、日本で言えば佐藤、鈴木の

ようない実にありふれた名前なのだ。ちなみに、世界

で一番多い名字は中国の張さんで、世界中に一憶二千

万人いるそうだ。その数は、なんと日本の総人口と一

緒である。



面白い名前は、何も人間だけのことではない。お馬

さんの世界にも、ヘンテコリンな名前の付いた競走馬

がたくさんいる。

オレハマッテルゼ…?日活の映画のタイトルのよう

な名前の馬である。通常、馬名は馬主さんが付けるの

だろうが、この馬主さんは特にユニークな名前の馬が

多い。

ワスレナイデ、エガオヲミセテ、ソレガドウシタ、

ウラギルナヨ…。これ、競走馬の名前ですよ。決して

痴話げんかをしている訳ではありません。

ふざけているのかと思うような、ヘンテコリンな名

前はまだ続く。オジサンオジサン、イヤダイヤダ、カ

ミサンコワイ…。挙句の果ては、カゼニフカレテ、サ

ヨウナラと来た。

面白い名前だが、よく考えると賭しても賭してもず

っと負け続け、それでもまた競馬場に通ってしまう、

一途なファンの心情を表しているような名前にも思え

て応援したくなってしまうが、もうどの馬も現役を退

いている。



昔、我が家で飼っているアホ犬の名前の付いた馬は

いないものかと馬柱欄を探したら、「ボクノタイヨウ」

という中央競馬の馬がいた。我が家のアホ犬・タイヨ

ウ君と同じ名前で、しかも“僕のタイヨウ”である。

その血統を見てびっくりした。お父さんはあのアグ

ネスデジタルで、お母さんのお父さん、つまりタイヨ

ウ君のお爺ちゃんは有名なサンデーサイレンスなのだ。

血統書付きの超エリートサラブレッドである。

これはもう応援するしかない。何しろ僕のタイヨウ

なのである。もう、すっかりはまってしまったオジサ

ンは、タイヨウ君の出場するレースは全てテレビで観

戦し、東京で走る時は府中まで応援しに出かけたもの

だった。

305勝。

なかなか勝つことが出来ずにオープンには昇級でき

なかったが、常に全力疾走で一生懸命走る姿にいつも

感動していた。

あれから十年近く経過したが、最近は全然見かけな

くなってしまった。どこか地方のレース場で、まだ元

気に走っているのだろうか。それならいいのだが、ボ

クノタイヨウは、今どこにいるのだろうか。











白南風に吹かれて「なんと面倒な事、多かりき」







なんと面倒な事、多かりき。




平成日本は、実に平和な国である。

政治の世界では毎度のごとくゴタゴタが続いている

が、それでもこの国は世界に比べても平和な国である。

とりあえず、生活は豊かで、食べることに困ること

もなく、言論も自由である。

世界から来た観光客は日本の治安の良さにビックリ

しているが、街では女子供が夜中まで遊び惚け、金が

あれば、モノがあれば、なんとも幸せなのである。も

ちろん戦争など遠い国のでき事である。



日本だけのことではないだろうが、スマホ依存症の

人間が増えている。結局のところ、すべては使う人の

節度であろうが、SNSにしがみつき一日中スマホにか

じりついて画面ばかり見つめているのもどうかと思う。

道を歩いていても、電車に乗っていても、駅のホー

ムを歩いていても、ずっと手にスマホを持ったまま画

面にくぎ付けになっている。

たぶん家でもそうなのであろう。聞くところによる

と、一日十時間もスマホにかじりついているという統

計もあるそうだ。



SNSにしても、いいこともたくさんあるのだろうが、

やはりどこか変である。

変と言うよりも不気味である。何だろう、あの違和

感は。匿名だからか、好きなことを言っている。名前

も顔も素性も、その正体を現さずに言うのだから怖い

ものなしである。

いらない情報。鬱陶しいつながり。他人の評判ばか

りを気にして、他にやることがあるだろうに。SNSは、

倫理観の世界を確立しないままいつの間にか巨大化し

怪獣のようになってしまった。


別にスマホが悪いと言っている訳ではないが、なん

でもスマホで検索すればすぐに必要な情報が手に入る。

それは一見便利で快適なようで、実はそうではない。

自分の脳を使って選択・判断・系列化する能力は、確

実に低下しているはずである。


それに、物事には見えない方が、分からない方が、

シアワセな時もたくさんあるのである。そのことをス

マホは教えてくれない。

便利で快適だと思っていたスマホが原因で、友達と

喧嘩をしたり、いじめにあったり、事件に巻き込まれ

たり、使い方次第でスマホは悪魔にも天使にも変身す

る。それを分かっていないと痛い目に合う。


だからというワケではないが、たまにはスマホから

離れてみるのも悪いことではない。

顔を上げて周りをじっくりと見渡せば、いつもと違

う風景や時間が見えてくるものである。そうすれば、

周囲の言葉などどうでもいいことで、自分への悪口な

ど一向に意に介さず、どんと構えて生きていける人間

になれるかも知れない。



「言葉狩り」という言葉がある。

何かの本で読んだが、様々な言葉が差別的という理

由で俎上に上がっているらしい。

…カメラマンという名称は、女性のカメラマンもいる

ので、カメラパーソンに…。

…ふむふむ。

…障害物競争は、障害と言う言葉が差別的だから「興

味走」に…。

…ふむふむ。どこに差別的な意味合いがあるの。私に

は分からない。

…他人にボールをぶつけるドッジボールは、いじめに

つながる。

…客室乗務員は女性蔑視につながるから「キャビンア

テンダント」に…。

…ふむふむ。一体誰が騒いでいるのだろうか。


誰でも参加できるSNSの台頭が、一億総コメンテー

ー化しているのだろうか。そのうち、床屋さんも八百

屋さんも差別を連想させる言葉だから亡くなってしま

うのだとか。

…おやおや。いったいどうなってしまうのやら。

 

とかくこの世は、不条理に溢れている。

何と言っても、一番の不条理は戦争だろう。そもそ

も、どういう理由で戦争を始めるのか。建前では自国

の領土を守るため、平和のため、子供の未来のためと

か言っているが、そうでないのは明らかである。

その多くが復讐のためである。その復讐と言う怨念

を乗せた爆弾が、今日も夜空を飛び交っている。

宗教の違いが憎しみを生み、石油資源を守るために、

罪もない人が命を落とし、多くの人が故郷を追われ流

浪の旅を余儀なくされる。移住が許されたかの地では、

やはり不都合だから帰ってくれとEUを脱退する国も

現れる。不条理の連続である。



人間が生きていく中で、宗教が異なろうと肌の色が

変わっていようと、そんなことは些末なことで、もっ

と大切なことがあることを世界中の誰もが理解してい

るのに、この難題が自分に関わってくると知らん顔を

する。

人間世界の、なんと面倒な事なりき。

もちろん、戦争を始めた人は、いつも戦場にはいな

い。瓦礫の中で泣いている子供たちの声も、ホワイト

ハウスやクレムリンにはまだ届いていない。いや、届

いていても、彼らは耳を塞いでいるに違いない。



今日もまた、世界のどこかで罪のない子供たちの命

が奪われている。神様はどこにいるのだろうか。いや、

そもそも神様はいるのだろうか…。











白南風に吹かれて「紫陽花の花に訊く」





紫陽花の花に訊く。




静かな雨が、仕事場の窓を濡らしている。

カーテンを開けると、雨に煙った緑色のバルコニー

に咲いた鉢植えの紫陽花が、雨に打たれ心なしか笑っ

ているように思えた。

梅雨に入ってから雨らしい雨が降ることはなかった

ので、利根川水系の水不足も少しは解消されるのだろ

うか。穀物の成長にも、雨は欠かせない。水不足に悩

んでいた稲の成長もひと安心である。

春に花が咲き、穀物の季節には雨が降り、緑の季節

に成長し、実りの時を迎えた後は、次の再生に備え眠

りにつく。そしてまた春を迎え…。

四季の移り変わりの中に、自然と向き合う日本人の

姿がある。




自然は人間に恵みをもたらすが、同時に畏怖の対象

でもある。

テレビ画面では、九州地方の記録的な豪雨の様子が

流れていた。丹精込めて育てた水田の稲を襲うばかり

か、人間の命さえ奪ってしまう。

この季節になると毎年同じような映像を見る。自然

の摂理とはいえ、地球の法則のようなものがどこかで

動いている気がしてならない。

…記録的な大雨、過去に例のない豪雨…。

分かっていることなのだが、いつも人間は自然を制

御できないでいる。それは太古の昔からのことで、だ

からこそ制御できない自然の中に「神」を見つけ祈り

崇めてきただろう。

「八百万の神」である。

森羅万象、自然界のもの全てには神が宿り、日本人

が古くから崇めた自然の恐怖、畏怖の対象なのだそう

な。

宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」が描いた世界観

も[「八百万の神」である。あの得体の知れない怪物

たちは「八百万の神」で、毎晩湯屋にカラダを清めに

来るのである。そう思えば、監督が映画に託した思い

が、ほんの少し見えてくるような気がしないでもない。




話は飛んでしまったが、さて雨が降っている。

雨と言えば、イギリスに留学していた義理の弟から

面白い話を訊いたことがあった。ほとんどの英国人は、

雨が降っても傘を使わないそうなのだ。

傘を持っていないのかと言えば、そうではない。英

国人の矜持なのか、少々の雨では傘を差さない。多く

の英国紳士は、雨の中を傘も差さずに悠然と歩いてい

るのだという。

雨の日に傘を差して歩くことは、野暮ったいことな

のだろうか。英国紳士だから、野暮な振る舞いはしな

い。そんな気概が感じられるが、果たしてホントのこ

となのだろうか。誰か知っている人がいれば、教えて

欲しいものである。

日本人は、雨に対して敏感な民族であることは間違

いない。まず、雨を使った言葉の数を見ればわかる。

曇りのち雨、人生雨模様、土砂降りの雨など憂鬱とい

うかネガティブなイメージの言葉もあれば、桜雨、卯

の花腐し、翠雨、緑雨、甘雨、寒雨など、風情を感じ

る美しい雨の言葉もある。




紫陽花の咲いた緑色の庭に、梅雨の雨がシトシトと

音もなく振り続いている。この情緒的な雨が私は好き

だ。シトシトと振る雨の、なんと言うか人間で言えば

「立ち居振る舞い」のような感覚が好きなのである。

このしっとりとした雨の降り方は、東日本だけのも

のらしい。西日本での梅雨のイメージは「ザーザー」

とダイナミックに降るのだとか。なるほど、九州地方

に多い“記録的な豪雨”というのは、その法則に当た

っているのだろうか。




偏西風に追われた梅雨前線が、列島を抜けて行った
のだろう。夕刻、西の空に太陽が顔を出した。
雨に濡れた紫陽花が、陽を受けて凛とした姿で佇ん
でいる。藍の花は、雨に濡れても風に身を削られても
太陽に照らされても、変わらずに凛と咲いている。
花は何も考えることなく、そこに咲いている。誰か
に認められたいとか、褒めてほしいなどの、一切の我
欲もない。そして一度もぶれることなく今年の花期を
終えるのだろう。
咲く花にさえ、矜持がある。黙して語らず、が美し
くてカッコいい。


 紫陽花の花に見とれていたら、テレビ画面に都知事

の顔が映し出された。
「晴れのち豪雨」のような展開であるが、この人どう
したのだろうか。多弁を弄して弁解ばかりで、潔さが
ないし全然カッコ良くない。紫陽花の花に訊いてみた
らどうだろう。
 自分の人生を、一度もぶれずに生きて行くことはな
かなか難しいことであるが、できることなら紫陽花の
花のように、凛として生きてみたいものである。














白南風に吹かれて「そして私は、途方に暮れる」







そして私は、途方に暮れる。


 ここの所、途方に暮れている。

 なぜかと言うと、仕事が全然捗っていない。六月中

に納品しなければならない仕事なのに、まだ手も付け

ていない状況である。結構難しい案件なので、少し勉

強してから構成に入り、コピーを起してデザインしな

ければならないのに、この体たらくである。

 どうしてこんな状況になってしまったのだろう。も

ともとダラシナイ性格なのだが、一番の理由はお馬さ

んである。

春のG1戦線がずっと続いている。本来なら、仕事

の合間に馬注(出走馬の戦績が掲載された新聞)を手

にすればいいものを、馬注を広げる合間に仕事をして

いるから、途方に暮れる羽目になってしまう。

 その上、全然当たっていないと言うのも、途方に暮

れる理由である。はっきり言ってここ数年、当たり馬

券を買ったことがない。どうして当たらないのか。そ

れは本命筋を嫌うからに他ならない。

人気のある馬を買った方が、断然勝つ確率は高い。

しかしながら、限られた予算で購入するので、オッズ

が低い馬券を買ってもツマラナイのである。だってそ

うでしょう、千円が二千円になってもねえ。結果、千

円が十万円に化けるような、大穴の馬券ばかりを狙う

ようになる。

そんなことをしているから、当たらないと思うでし

ょう。ところがギッチョンチョン。大番狂わせは、い

つでも、どこでも、誰にでもやって来るものなのです。

いわゆる「大どんでん返し」というエンディングであ

る。

小説だって、テレビドラマだって、映画だって、大

どんでん返しは突然訪れる。しかしながら、その大ど

んでん返しが、いったいいつ、どこにやってくるのか。

いつ訪れるか分からない「大どんでん返し」を待ちわ

びて、私はずっと途方に暮れている。

 週末の午後、いつものように途方に暮れながら仕事

場で競馬新聞を眺めていると、アホ犬がやって来た。

犬の名前は「おりん」という。おりんが初めてわが家

にやって来たのは今から十数年前のことだから、随分

と長い間一緒にいたことになる。

やって来た当初はまだ小さくて、コロコロと廊下を

転げまわるように走っていた。仕事場にいても、フロ

ーリングを走る「カシャカシャ」という足音に、いつ

もその存在を感じ安堵し癒される自分がいた。

まさか、犬と会話する人生が待っていたとは夢にも

思わなかったが、

…おや、うんたこりん、こんなところにいたのでちゅ

か…。

と、幼児言葉で犬と話している自分に驚いたりする。

うんたこりんが、顔を上げることなく下を向きなが

らトボトボと歩く姿を見ていると、ホントに歳を取っ

たのだと可哀そうになってくる。

…キミ、大丈夫かね…。

 声をかけたが、聞こえているのかそうでないのか、

あまり反応はない。今までに、いったい何度キミの名

前を呼んだだろう。返事はせずに、いつも黙って見つ

めていた。

なんという名で呼んでも反応は同じなのだが、「お

りん」という名は、いつしか「おーちゃん」になり、

その後「おーたん」から「うんたん」に変化し、今は

「うんたこりん」と呼んでいる。

おりんと呼んでいた頃はまだ若々しいお嬢さんだっ

たが、名前の変遷とともに今ではすっかりお婆ちゃん

になってしまった。

 最近、歳なのだろうか動くのも億劫なようで、横に

なっていることが多い。時々、何かを考えているよう

な顔で風の行方を追ったりするが、実際は違うことを

考えているのだろう。

色々訊きたい事があったが、結局未だにちゃんと会

話は出来ていない。我が家に来て良かった、幸せだっ

た、と思ってくれると嬉しいのだが、犬に訊いても返

事はしない。

うんたこりんも歳を取る。

やがて体力が衰えて歩けなくなるだろうし、認知症

にもなるかも知れない。そして、いつの日か動かなく

なる日がやって来る。犬を飼っている以上、決して避

けて通ることのできない道である。

そう思うと、もっと行きたい場所に行かせてあげれ

ば良かった、もっと遊んであげれば良かったと後悔す

るのだろう。それが嫌で、せっせと休日に多摩川まで

散歩に出かけるのだが、果たして当人は喜んでいるの

だろうか。

…もう勘弁してよ。家で寝て居たいんだけど…。

 なんて迷惑がっていたりして。

 一人と一匹で、久しぶりに近所の散歩に出かけた。

うんたこりんの残された時間を考えると、それはそれ

で、かけがえのない時間である。

新緑に溢れた瑞々しい新しい季節の中を、長く生き

てきた一人と一匹が、申し訳なさそうにトボトボと歩

く。それでも、五月の風は一人と一匹の切ない時間を

優しく包み込んでくれる。

いつの日か、哀しくて涙が止まらない時が訪れ、私

はまた途方に暮れるのだろう。それはそれで、仕方の

ないことである。あの日の、あの時の、犬と戯れた日

々が脳裏に浮かび、楽しい日々が蘇る。犬を飼うとい

うことは、きっと意味があるのだと思う。

白南風に吹かれて「衝撃のコカ・コーラ」






衝撃のコカ・コーラ。



朝、異常な喉の渇きで目が覚めた。

布団から起き上がろうとするのだが、カラダが言う

ことを聞かない。ふらつきながら冷蔵庫まで辿りつき、

グラスに氷を入れコーラを注ぎ込んだ。喉を鳴らしな

がら一気に冷たいコーラを流し込む。なんて旨いコー

ラなんだ。二日酔いのカラダには、コーラが一番であ

る。

冷蔵庫のドアに額を押しつけながら昨夜のことを思

い返してみるが、所々記憶が飛んでいる。焼酎のボト

ルを一本飲み干したところまでは覚えているが、その

後の記憶が定かでない。ケータイの履歴を見ると、深

夜に何人かの知り合いに電話をかけている。

どうしてなのだろう。私は、酔うと誰かに電話した

くなるようだ。しかし、かけられた方はエライ迷惑で

ある。真夜中にかかってくる酔っ払いの電話ほど、面

倒くさいものはない。履歴に載っている友人の顔を思

い浮かべながら、頭をかいている自分が情けない。申

し訳ないが、記憶がないんだからどうしようもない。

いつものことである。

コーラの入ったグラスを額に当てた。

冷たくて気持ちいい。冷凍庫から保冷材を引っ張り

出して身体じゅうに貼りつけると、あっという間に熱

を吸収してヘナヘナになってしまう。酒を呑み過ぎた

翌日は、カラダが異常に熱を帯びている。それは私だ

けのことなのだろうか。

 仕事場に戻ると、窓ガラスがガタガタと音をだして

震えていた。この季節に吹く風に、名前はあるのだろ

うか。

窓を開けるとカーテンが大きく膨らみ、窓際で寝て

いたアホ犬がビックリして飛び上がった。意外とこの

犬臆病なのである。雷や花火の音を聞いただけで尻尾

は下がり、一目散にお風呂場に飛び込んで震えている

情けない犬なのである。

それにしても、窓から入る風が肌に当たり、火照っ

たカラダに気持ちいい。遠く北の空を見渡すと「わた

雲」が連なり、行進しているように見える。わた雲が

西から東へ連なると言うことは、天気は下り坂で雨に

なるのだろうか。昔、天気予報でそんな話を訊いた記

憶がある。

 そのわた雲に乗り、「風の又三郎」がやって来そう

な気配がする。

…どっどど、どどうど、どどうど、どどう…。

童話「風の又三郎」は、不思議な韻を踏む言葉で始

まる。風のイメージを表現しているのだろうが、日本

語にはない宮沢賢治独特の言い回しである。それでも、

山を越え野原を吹き渡ってくる風をイメージできるか

ら不思議である。

 夢か現実かよく分からないが、「あの少年は、風の

三郎だったのだろうか」と思う時がある。少年時代

話である。

子供の頃、東京から不思議な少年が転校してきた。

名前は覚えていないが、田舎では見かけないお洒落な

洋服姿で、革靴を履いていた。その少年もまた、風の

又三郎のように柔らかな赤い髪の毛をしていたことを

鮮明に覚えている。

転校してから数日たったある日、その赤毛の転校生

が不思議なモノをカバンから取り出し机の上にドンと

乗せた。緑色したビンで、中には黒い色の液体が入っ

ていた。

田舎の子供たちは、見たこともない色と形をしたビ

ンを取り囲んだ。

…ん、なんじゃこりゃ。

ガキ大将の源太が、顔をビンに近づけて叫んだ。

…色が真っ黒で醤油みたいじゃ。

 級長の翔平が、腕を組みながら言った。教室の窓ガ

ラスが、ガタガタと音を出して震えた。

…飲んでいいよ。美味しいよ。

赤毛がビンを差し出した。差し出された子供たちは、

お互いの顔を見つめ合った。そして、しばらく見つめ

合ったあと急に笑い出した。私もつられて笑った。

得体の知れない不思議な物体を、不思議な少年が持

ってきたことが可笑しかった。

…どうしたの…?飲んでいいんだよ。 家にまだたく

さんあるから…。

赤毛が不思議そうな顔で言った。

…これ本当に飲めるんじゃろうな…?

源太が赤毛に疑うような目をした。少し沈黙の時が

流れた。子供たちの目が赤毛に注がれる。疑いの眼差

しを向けられた赤毛が、急に怒り出した。

…嘘だと思うなら、お前らにはもう飲まさん。帰せ。

その剣幕に、慌てて源太が手を上げた。

…分かった、分かった、飲む、飲む…。

源太が一口飲んだ。

…ウッ、ナンジャコレハ…。なんか、クスリみたいだ。

…どれ、次は俺が飲む。

 級長の翔平が一歩前に出た。

…変な味じゃ。マズイ…。

 ひと口づつ回し飲みしたが、東京の味は子供たちに

不評だった。今でこそ当たり前に誰もが知るコカ・コ

ーラが、田舎の少年たちにデビューした衝撃の事件で

ある。


…お前らにはコーラの味は分からないんだ。

そう言って、赤毛の転校生は、それから数日後また

どこかへ転校してしまった。どこからか「フラッ」と

現れて、またどこかへ消えてゆく。まさしく、あれは

風の又三郎に違いない。子供たちは、東京の味コカ・

コーラと引き換えに、風の又三郎と二度と会えなくな

ってしまった。

コーラを見ると、時々あの風の又三郎を思い出す。

住宅街の屋根を渡って、風が「どう」と吹いてき来

た。窓ガラスが揺れ、ガタガタと窓ガラスを鳴らした。

風の又三郎がやってきたのだろうか。


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