どの宗教を信じ共に生きてくのは、
本人の自由であると思う、しかし、ミロスを知ると、
僕が不安を安心する為にインプットした情報だと
知ることができた、多くの人は、宗教という枠の中で、
不安になると、教会やお寺、モスクなどへ行き、
そこで、自分のしたことに対して、反省しり、
後悔したり、自分を責めて、責めて、
底まで行って、自分の不安を聞いてもらって、
安心を得てきた、大丈夫と言われ、許されると言われ、
その言葉を聞いて安心する、
でも、一時しのぎ、反省、後悔をしてる時点で、また
自分にインプット、同じことを繰り返す、宗教に依存、
宗教がなければ、救われなかったと勘違い(本人にとっては真実)
する、自分は自由のつもりが、実は自分が作った、ルールの
中でこれは正しい、これは間違いと、ジャッジをして、
枠を作り、自分が間違いとジャッジしたことが起こると、
不安、怒りを感じ、攻撃して、押さえつけてきた、
もっと楽に行けばいいのに、≧(´▽`)≦
不安や怒りを、ネガティブとジャッジせず自分を知る
チャンスと思えば、不安や怒りは消えるのに、
まあどの世界で生きるかは本人しだいだけど
ジャッジの世界に生きるか、ノージャッジの世界に生きるかは
オマケ
宗教にも裏と表がある、例えばキリスト教
(キリスト教は
キリストが作ったのでは無く信者が作った宗教)
聖書を作るとき参考にするのはいろんな聖人の福音書(福音書
の福音とは良い知らせことです)から選んで作っているんです
ちなみに現代に正典とされてる福音書は、ルカ、マタイ、マルコ
ヨハネの4つの福音書です
他に、マグダラのマリアの福音書もあります、
なので、聖書を作るにあたって、作る人の思想に合わないものは、
除外、または葬りさられてきたわけです、
と言うことで、この葬り去られてきた福音書の中に
ユダ福音書と言うのがあります、ユダと言うのは
キリスト教では禁句となるぐらいの名前です、
一般的に知られてるのは、キリストを裏切った、使徒
ですね、
でこのユダの福音書を作ったのが、
当時、グノーシス派と呼ばれた、原始キリスト教です、
(グノーシス派とは神は自分の中に存在すると思想持つ
宗派です。同じグノーシス派でも、いろんな思想もつ
派もあります)
そこで 少し、その福音書の中身を紹介します。
■.イエスと使徒たち
イエスは地上に現れたとき、数々の奇跡を行い、十二人の弟子たちを呼び集めた。イエスはしばしばそのままの姿では弟子たちの前には現れず、一人の子どもとして弟子たちの中にいた。
■.聖餐に関する議論
ある日、弟子たちは集まって座り、パンに感謝の祈りを唱える儀式(聖餐)を行っていた。これを見たイエスは、彼らのことを笑った。なぜ自分たちのことを笑うのか、と問い詰める弟子たちに対してイエスは、「私はあなたがたを笑っているのではない。あなたがたは自分たちの意志でそうしているのではなく、そうすることによって、あなたがたの神(地上の支配者)が賛美されるだろうからそうしているのだ」と答え、弟子たちの種族には自分のことが理解できないだろうと告げる。
■.ユダだけがイエスの前に立つ
イエスの言葉を聞いた弟子たちは怒り、心の中でイエスを罵り始めた。これを見たイエスは、「なぜこの興奮が怒りに変わったのか。あなたがたの内にいる完全なる人を取り出して、私の眼前に立たせなさい」と話す。弟子たちは口を揃え、自分たちにはそれだけの勇気があると主張したが、実際にイエスの前に立つことができたのは、イスカリオテのユダだけであった。しかしユダもまた、イエスの目を見ることができず、顔を背けた。
ユダはイエスに、「あなたが誰か、どこから来たのか私は知っています。あなたは不死の王国バルベーローからやって来ました。私にはあなたを遣わした方の名前を口に出すだけの価値がありません」と話す。これに対してイエスは、誰か他の者がお前に取って代わろうとするため、十二使徒から離れるように促し、そうすれば王国の秘密を授けようと約束する。ユダはイエスに対し、その教えはいつ授けられるのか、また終末が訪れるのはいつなのかを問いかけるが、イエスはそれに答えないまま彼から離れ去ってしまう。
■.対話の終わり
最後にイエスはユダに対し、「お前は神の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを越える存在になるだろう」と告げる。ユダは、聖なる種族と共に永遠の王国へと引き上げられるのである。
この福音書がキリスト教に大きな衝撃を
与えたのは、お分かりですよね
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