2日間 覚王山夏祭りが終わりました。確実に 恒例の「ゲリラ豪雨」もしっかり記憶に刻まれております。
毎回沢山の人に関わる中で 学ぶこともしばしあります。
今回はその中でも、
恥づかしながら今頃知りました!
店の前で 『反核兵器』を呼びかける婦人会の掲げていた一枚の写真に惹かれ伺ってみました。
米従軍フォトグラファー ジョー オダネル氏。
1945年と1946年に日本の長崎及び広島における原爆投下直後の状況を、米海兵隊の写真家として撮影した。2009年に新聞でも大きく取り上げられていました。その時の記事も見せて頂きました。
ご存知んじの方からすれば、何を今更と思うことでしょうが、まだ知らない方の為に(自分含めウチのスタッフは知らなかったので)
このポスターに書き込まれていた彼の文章をそれに近いものを探しましたので今を生きる日本人として目を通して見てください。『焼き場に立つ少年
1945年 長崎 撮影 ジョー・オダネル
原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、
少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。
素足が痛々しい。
オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学館発行)でこう回想している。
「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。
小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。
少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。
わき上がる熱風にも動じない。
係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。(略)
私は彼から目をそらすことができなかった。
少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。
私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。
私は彼の肩を抱いてやりたかった。
しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」
目撃者の眼 報道写真家 ジョー・オダネルから
1999年現在76歳になるジョー・オダネル氏は、アメリカ軍の
報道写真家として第2次世界大戦後の日本を撮った。
佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を
赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に
血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、
沈黙のまま焼き場を去っていきました。』
少年は悲しみや寂しさ、やりどころのない怒りに、必死に耐え 堪えていたのです。
その張り詰めた糸は、声をかける事さえさせなかったのでしょう。