年貢を減らせ!

年貢を減らせ!

とりあえず年貢を減らせ。話し合いはそれからだ。

書評、映画評、雑感

――等々

Amebaでブログを始めよう!

 これでもかってくらい、子供側の視点に立って語られる、教育の矛盾。「みんなうんち」でおなじみの、世界的な絵本作家による大人向け絵本。

いや、凄いよ。

徹頭徹尾子供の味方だもん。目からうろこ。

大人の言うことに対して、何も考えずに従うのはアレってことさ。

良い子かもしれないけど、頭の悪い子ってことさ。


親特有の、「お前のためを思って~」っていう嘘と欺瞞は、思考停止を招くだけって事さ。


この本を読むと、昨今話題になっているいじめ問題に対する大人たちの対応が、いかにダサいかが分かると思う。

というより、なんかピントずれてるんだよね。

「いじめをやめよう」とか大分適当なこと言ってるけれど、結局高いところから子供の事を観ているだけじゃないかと。

いじめをした人を停学にするとかなんとか馬鹿なこと言っていた、教育~会議とかいう胡散臭い連中じゃなくて、五味太郎さんみたいな人に全て任せるのもおもしろいかもしれない。


一度読んでみると面白いと思う。

個人的には、親に読んでもらいたい。

親がこの本読んでたら、俺はこんなにひねくれなかったかなw



いじめについて続けると。。


森前首相が、時事放談で凄く良い事を言ってた。

「いじめで停学云々とか馬鹿なこと言ってないで、親の責任を考えなさい」と。

「うちの子がいじめられてて~」なんていって、学校側を非難してる親のニュースが流れていたけど、、

結局元を辿ればあんたが教育に失敗したツケじゃないかと。


世の中は、いじめ⇒悪いことと簡略化して、思考停しようとしているけれど、コレはちょっと危険だと思う。

いや、いじめを全肯定するわけではないが、いじめられる側の問題もあるだろうと。


もともと、近代国家と言うものを作る際に、俺達のご先祖様は国家規模のいじめをやらかしてきたわけで。

国家と言う集団に馴致できない少数派を、弾圧し、敵とし、国民意識を創出することで国家と言う体系を強くしてきたのが、今の国民国家と言う形態なはず。

子供のいじめ問題を語るなら、あんたらがいじめてきた被差別部落やアイヌや沖縄という問題に白黒つけろよジャパニーズ。

沖縄は悲惨だよ。日本と中国の板ばさみになって、二つの大国からいじめられつづけたのだから。


結局は、いじめられる人っていうのは、一定の集団に馴致することを拒んだ人なわけで。

それはそれでいいと思う。考え方や主義主張が合わないならば、集団に馴致する必要性は無論無い。

だが、そのことで集団側からかかる圧力に屈した弱い連中が「いじめられる人」なんだろうと思う。

いいじゃないか、皆と一緒じゃなくても。

胸を張れば良いのに。

集団との溝が、身体的なハンディとか自力で覆せないようなものならば、考える余地はあるかもしれない。

しかし、自分で集団からドロップアウトしておいて、いざ圧力がかかったらそれに屈して、ちまちまルサンチマン溜め込んでるようなのは論外だろう。

逆恨みでしかない。

ただ根性が足りないだけのようにも思える。


言い過ぎたかな。

しかしながら、いじめを苦にして自殺っていうのがどうも分からない。

自分で招いた事態なんだから、自分でツケを払うと言う姿勢はいいとおもうが、

手段が自殺というのが解せない。


身内で自殺者が出てしまったので言わせてもらうが


自殺を安易に考えないで欲しい。

それはただの「逃避」でしかなく、

なんの解決にもならないでしょ。

死ぬくらいなら、死ぬ気で打開策を探ればいいじゃないか。

結局は、弱者の言い訳なんだから。




 顔は醜いが、どこか憎めない奴。

赤西蠣太。

しかしその正体は、伊達騒動を内偵しに来た隠密であった。

隠密仲間と伊達藩からの脱出を試みた彼は、

醜男の自分が城内随一の美女に告白し、失恋のまま失踪という方法であった。

ところが、こっぴどく振られるつもりが告白を承諾され、なかなか思い通りにいかない。

困り果てた彼は、書置きを残し失踪する方法をとるのだが…



とにかく、小説として完成されすぎている感がある。

志賀作品の特徴だが、文章に無駄がない。

この作品、一見すると話を膨らまそうとすればいくらでも膨らませそうではあるのだが、

いざ考えてみるとしっくり来ない。

そのうえ、これ以上削ることが出来ないくらい、極限まで簡潔な文体で貫かれている。

あれこれ考えた末、この作品自体が完璧な形なのだと気づく。

そう、伊達に「小説の神様」ではない。


この作品が、志賀作品では一番のお気に入り。

短くて読みやすいので、是非一度読んでみるのをお勧めする。(志賀直哉は、暗夜行路以外では長編を書いておらず、すべて短編小説となる)


ちなみに、伊丹万作監督によって映画化もされているらしい。

志賀本人が絶賛したとか。。

 死生観と言おうか、独特の空気が漂っている。

電車に撥ねられた著者が、療養先で目の当たりにする小動物たちの死。


雨で流されていく蜂の屍骸。

首に串を刺されて川に放り込まれた挙句、溺れまいと岸を目指すも、人々に石を投げ込まれて溺れてゆく鼠。

川の岩にへばりつき、著者が何気なく投げた石に潰される井守。


悲哀と言うか、哀愁というか

――寂しさ、なんだと思う。

静謐とした、無駄のない語り口の中で

命に対する寂しさを思わせるような空気が漂っている。




 38歳・秋

「死んでもいい」と思っていた。

ある夜、不思議なワゴンに乗った。

そして――自分と同い年の父と出会った。


僕らは、友達になれるだろうか?


       (以上、帯より引用)



泣いたよ、久しぶりに小説読んで泣いた。

コレは久しぶりにヒットした。

沁みる小説だと思う。


家族の変調に気づかなくて、

気づいてもそのままにしておいて、

破綻してしまった家族。


主人公は、タイムスリップしてたどり着いた。

今の最悪な自分のターニングポイントに。

その「仮定の世界」で、彼はもがく。


あの日、あの瞬間

言えなかった言葉を

伝えられなかった思いを

仮に未来が変えられないものだとしても

彼は、家族の幸せを願ってもがく



登場人物が皆、深く描かれている。

一人一人の心理が、ストレートに表現されることで、

強く読み手の心を打つ。

交通事故で夭逝してしまった小学生が、父の元を離れて成仏しようとして、でもやっぱり父親のところに戻ってきちゃう。

このシーンで凄い勢いで泣いた。

意図せず、ぽろぽろ涙が出た。

うん、電車の中だったけど。変な目で見られたけど。

ある意味不可抗力。


家族っていう絆は結構強くて、そして存外にもろい。

その絆を、「あたりまえ」と奢った時にそれは瓦解する。

自分の中で勝手に相手のイメージを持ち、相手を「見る」事をしない。

分かったつもりの蓄積が、やがて取り返しのつかない事態を招く。

主人公の家庭は、そうして壊れた。

そして、彼はタイムスリップした先で、父親に会う。

本来会うはずがなかった、自分と同い年の父親。

我が強くて、人として強くて、苦手だった父親。

だけど、朋輩として父と付き合ううちに、

彼の弱さを見る。

そして、彼に惹かれる。

自分と息子も、こうやって話せればよかったのに……。



正直、家族とそりが合わない自分としては、凄く考えさせられた。

俺はこの春、家を出る予定だ。

家族と距離を置いて、

もう一度家族と言うものを考え直してみようと思う。

この小説は、そんな気持ちにさせてくれた。




 自堕落な生活をおくる主人公。

ふと気がつくと、いろいろなものを失っていて。

で、とりあえず、身近にある醜悪な大黒の置物に責任転嫁して八つ当たりしてみる。

ところがこいつがなかなかの曲者。

置物のくせに真っ直ぐ立てねぇときやがった。

まったくふざけた置物。

おまけに、こいつを捨てようとすると、ろくな目に遭わない。

なかなか手放せないでいると…


 元パンクロッカー、「町田 康」

日本で一番最初にパンクやった方々の一人らしい。


いまや芥川賞作家。

その小説デビュー作。


作品もパンクな感じが漂ってます。

というより、ちょっとした小噺をうまくつないだような感じ。

んー、、

簡単に言うと、

うまいオチがぽんぽん出てきて話が進んでく感じというか…

いや、すいません。

うまくせつめいできないや。


文章自体は、句読点をやたらと乱用していて、慣れないとやや読みにくい。

後々だんだん文体が変化して、後の作品では多少直っている。

が、慣れると句読点の多さが気にならない。

さすが元ミュージシャンというか、文章がある一定のリズムと韻で書かれているので、句読点で細切れになっている文章をスイスイ軽快に読んでいくと、その真価にはじめて気づく。


彼の小説には、自堕落な人間が多く出てくる。

時に辛らつな、突き放したような表現や、差別用語で彼らを表現するのだが、そこには慈愛と寛容さが見受けられる。

むしろ、社会と言う集団から一歩引いた視点から描く「自然」は、非常に新鮮な刺激に溢れているといえよう。


そんな、小説家としての彼の原点。

まだ手探りで粗野ではあるけれど、彼のパンクな叫びがここにある。