解散危機を乗り越えて/ノンスタイル石田明(上)
スポニチ
スターダムを駆け上がる、という言葉が今最もしっくりくるコンビかも知れない。昨年のM-1グランプリを制し、号泣したのが記憶に新しい「NON STYLE」石田明(28)は「人は寝ないと静脈が浮き出て緑色になると知った」と目の回るような忙しい日々を過ごす。
M-1決勝では「しゃべり出した瞬間から感動を覚えていた。あこがれの舞台でこんないい出来の漫才ができてるという自分に対して興奮した」とそれまで味わったことのない感覚に襲われたという。もう一人の自分が漫才をしている自分を冷静に見ていたからこその栄冠だった。
石田が声を荒らげることはめったにないが、相方の井上裕介(28)にブチ切れたことがある。昨年3月、翌4月からの東京進出を控えて大ゲンカになり、普段は「アイツが社長でボクが下請け」というほど井上に従順な石田が、この時ばかりは酒の勢いも手伝って別人になった。
「M-1に出れる年までは一緒にやるけどそれが終わったら解散や!お前はタレントでも何でもやれ!!」
衝撃の“解散通告”。同席していた吉本興業社員が止めてなんとか収まったものの、井上は涙を流したという。
ケンカの原因は芸人としての方向性の違い。石田は漫才にこだわり、舞台ありきの考えだが、井上はタレント志向が強く議論はいつまでたっても平行線をたどった。
「井上はてっぺん獲りたいという考えが当たり前やと思ってる。でもボクはより多く漫才をしてじかにお客さんに楽しんでもらいたいんです」
ただ、通告は今では無効だ。「(勢いで)言うてもうただけ。井上も酔いすぎて覚えてないと言ってたんで」と解散危機はとりあえず回避した。むしろ「東京に来てからしっかり話し合うようになったし、井上も漫才に対して真剣になったと思う」と結束が強まったことも結果につながった。
石田は「優勝したいと思ってたけど自信はなかった」と振り返るM-1。しかし、実は予兆があった。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/column/yoshimoto/KFullNormal20090122160.html
漫才は90点も…/ノンスタイル石田明(下)
「NON STYLE」石田明(28)は「芸人になったのは人前でしゃべれず、大きい声も出せなかったので性格改善のための荒療治です」というほど内気だった。2人は大阪や神戸でストリート漫才をしていたが、当初は「声を出すためにお酒を飲んでダッシュ10本くらいやって酔ってから漫才してた」というほどだ。
プロになってからも舞台に立つ前は緊張のあまり毎回嘔吐(おうと)した。時折ではない。毎回だ。それが昨年は1回もなかったという。
「慣れたんじゃない。ぬかりなく準備ができたからなんです」。これまでM-1で負けても悔しいと思わなかった石田が、一昨年に準決勝で敗れた時、初めて悔しさを感じた。「1年かけてM-1に対して頑張ると思ったくせに頑張れなかった時があった。気持ちの差で負けたと思ったら泣けてきた」。昨年の努力を振り返った時、「自信」という名のヨロイを身に着けた石田は決して吐かなくなっていた。
それでもいまだに芸人に向いてないと思うことがあるという。そんな石田を救った言葉がある。
「お前は自分で向いてへんと思いすぎや。ふざけんな。向いてないのにここまで来れる世界やと思うなよ。お笑いはそんな簡単なものやない。お前は向いてんねん。意識が高すぎる。もっとゆっくりせえ。ゆっくりしてもお前は人より頑張れてるから」
発言の主は麒麟・田村裕(29)。石田は「すごく気が楽になった。今でも弱気になった時は思い出す」と話す。
そんな石田も漫才師としての自分には「90点」と高く評価した。ただ、テレビ人としては「15点」と低評価。ストリートで鍛えた大きな声も「テレビでは大きすぎる。逆に1ランク落とさんと周りとのバランスが取れない」と頭をかいた。今後、急激に増えるであろうテレビ出演は毎回毎回が勉強の場だ。
「最終的には両方100点と言えるようになりたい」。石田はテレビ人としても活躍することを声を大にして誓った。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/column/yoshimoto/KFullNormal20090124198.html
「イキリ」キャラも余裕なし/ノンスタイル井上裕介(上)
一瞬だけ泣いた。2008年のM-1王者に輝いた「NON STYLE」井上裕介(28)はオンエア直後、賞金1000万円と書かれたボードの陰で涙をぬぐった。
「本番では相方の石田がべらぼうに泣いていたので泣いたらアカンと。それでも耐えきれなくなりました。優勝したときはただ“ウオ~”って大きな声を出したかった」
決勝では漫才にとにかく集中した。センターマイクを挟んで井上の立ち位置からは7人の審査員の顔が見えた。島田紳助(52)、松本人志(45)、上沼恵美子(53)ら一流の顔ぶれ。「7体の大仏が並んでる」と暗示をかけて舞台に立った。
若手の頃から可愛がってもらっていたタレント・大林素子(41)が340人の客席にまぎれているのが見えた。「頭ひとつデカイんで分かりました。あれでリラックスできた。最後は相方しか見えませんでしたけど(笑い)」。結果発表の直前には感謝の意味も込めて大林に手を振った。
「決勝の2本目の漫才の出だしで優勝するのが分かった。会場の空気感はすごかったですよ」。大林は漫才が始まった瞬間に王者になることを確信したという。
井上はジャケットにタンクトップ姿の「イキリ」キャラが持ち味。「イキリ」は自意識過剰のナルシストで「ええ格好しい」という意味だ。それが会見場ではまったく「素」に戻っていた。
「余裕がなかった。タンクトップもビロビロでした。汗で体に張り付いてました。テレビに出るときは絶対に直すのに気づきませんでした」
戴冠後は先輩や後輩からお祝いの電話や「おめでとう」ラッシュが続いた。今まであまり接点のなかった女性たちから「あの時、実はわたしもあなたのことが好きやってん」「わたしのこと覚えてる?」という内容のメールが約40件も届いたことにもびっくりした。
あらゆる媒体から取材が殺到するなどM-1バブルも体感中。「死ぬまでバカをやっていきたい。そのために名前を売りたい」。真価を問われるのはこれから。ノンスタはやっとスタートラインに立った。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/column/yoshimoto/KFullNormal20090125164.html
片道電車賃手にストリート漫才/ノンスタイル井上裕介(下)
「NON STYLE」は路上で生まれた。ストリートミュージシャンならぬストリート漫才師。大阪・梅田の東通り商店街や兵庫・三宮駅前でライブを開いた。ツッコミの井上裕介(28)が引っ込み思案のボケ・石田明(28)を引っ張ってやり続けた。多い時には300人のギャラリーに囲まれたこともある。
「1日で4万円くらい稼ぐこともありました。今でも当時のボケ方やネタを今風にアレンジして使ってますね」
最初は実家近くの梅田の繁華街で立った。そこで泥酔した会社員に石田が「お前は根本的に向いてない。オレの下で働け」と説教された。「もうやめたい」と泣き言をいう石田を説得して三宮に場所を変更した。
毎週金、土曜日に1日2時間の2回公演。1回で20本のネタをかけた。目の前にはバケツ缶。マイクスタンドと開催予定を書いたビラ300枚を用意。「漫才やります」と書いたスケッチブックとスピーカーを石田が持ち運んで即席の“舞台”を作った。
「石田はいつも片道の電車賃390円だけ持って三宮に来てました。終わってから朝まで飲み明かすのが楽しかった」
一度、ケンカしながら歩いているヤンキーのカップルに八つ当たりされた。スピーカーを蹴られ、井上が胸ぐらをつかまれて「お前ら、なめんとんのか」と脅された。石田に助けを求めると、相方は転がるスピーカーを必死で追いかけていた。その日のことだけは忘れないという。
そのころ、若手の劇場「baseよしもと」で定期的にオーディションを開催していることを知った。予選落ちしたことで井上の負けじ魂に火がついた。気付いてみれば「base」でネタができるレベルまで勝ち上がっていた。
「銀行の口座だけ書いて」「これが手売りのチケット」「路上で漫才はええけどお金は取らないように」…。吉本興業から声がかかった。こうしてストリート漫才師は7カ月でプロになった。ただ、いつから正式に吉本入りしたかは相変わらず謎のままだという。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/column/yoshimoto/KFullNormal20090128001.html
NON STYLE 井上 裕介のイケイケブログ
NON STYLE いしだあきらの イケイケイケイケイケイケブログ
NON STYLE - Wikipedia
日々ネタがあって嬉しいわぁ
こないだ珍しく新聞を買い込んでたのは この記事があったからで
バックナンバーがネット掲載になって やっとカラー写真が見られた
上京時にいろいろあったとは聞いてたけど 解散宣言までしてたとは・・・
こんなに性格が正反対の二人だもんねぇ だからいいんだけどさ
ここんとこ毎日どこかのテレビに出てるけど
ひな壇芸人としてはまだまだの部分も多そうな二人
冠番組を早く持てるようになって欲しいなぁ
・・・・・その頃まで マイブームが続いているかは・・・なぞ。(笑)
NON STYLE インタビュー/@ぴあ
史上最多4489組の頂点に立ち、M-1グランプリ2008の王者となったNON STYLE。早くからその実力を評価されながらも、ことM-1においては準決勝止まりだった彼ら。初めての決勝進出、そして優勝。その裏には、「生涯漫才師」を目指すふたりの「必死の魂」があった――。
――今回は、改めてM-1グランプリ2008を振り返ってもらえればと。まず、決勝の抽選で引いたネタ順は「7」でした。
石田「今思うと、あれもわけのわからん流れみたいなものがありました。僕、クジ運がめちゃくちゃ悪いから、こういう大会では、絶対に井上さんに引かすんですよ」
井上「最初で最後ですよ、こいつがクジを引いたのって。今まで穫ってきた賞レースの順番は、全部僕が引きましたから」
石田「M-1の抽選の時も、直前まで井上さんに引かすつもりやったんです。ところが、なんかしらないんですけど、抽選箱の前に立った瞬間に、バッって手を突っ込んでいて」
――そして当日。初めての決勝の舞台は、やはり緊張しましたか?
石田「緊張はしました。本番中に井上さんにも言われましたけど、汗が尋常じゃなかった(笑)。でも、僕は、2007年のM-1も2006年も、出番前の緊張感で、2回戦から、えづいていた。ところが、今回は、予選の段階から1度もえづくことがなかったんです」
――やはり、全国ツアーで場数を踏んだ経験が大きかったんですかね?
石田「そうなんでしょうね。自分の中で『1年間、漫才をやってきた』という、たしかな感覚があったから」
――その全国ツアーのタイトルが『M-1優勝したいんですツアー』。これ、芸人がよく口にする「ハードルを上げる」類いのものだったと思うんですが?
井上「それはそうなんですけど、その部分よりも自分たちを洗脳したかったんです。『俺たちは優勝するんや!』と。雑誌の取材でも、冗談っぽくですけど、『もう優勝しました、僕』とか言っていましたからね」
石田「で、井上さんがビックマウスを叩けば叩くほど、僕の体調が悪くなるという(笑)。僕、M-1決勝の前後で3キロ痩せてますから」
井上「僕は『M-1優勝する!』って、玄関に貼っていましたからね。その横に『ダイエットする!』とも貼っていたんですけど、そちらの目標はいまだに達成できていません(笑)」
――なるほど。M-1で優勝するためには、様々な要因があったと思います。でも、ただひとつだけ、M-1優勝の理由を選ぶとすると?
井上「僕がいいこと言いましょか? 石田です! 石田がいなかったら優勝はないです!」
石田「この流れでその答えはずるいわ! 俺が答えにくいやろ!」
井上「マジメな話をすると……、東京やな?」
石田「うん、そうですね。東京に来ることがなかったらM-1の優勝はなかったかもしれないです」
――大阪では9本のレギュラー番組がありました。東京では?
井上「わかりやすく減りました。ルミネの出番とヨシモト∞の仕事だけ。さすがに焦って、4月と5月は、毎日ホームレスになる夢をみて、“うわっ!”と思って起きてました」
石田「ハートの強い井上さんが焦ったのは、ほかにも理由もあったんです。実は僕、M-1に挑戦できるコンビ結成10年の期間までがんばってあかんかったら、『解散しよう』と言って東京に出てきてましたから。『俺は生涯漫才師でいたい。M-1に挑戦できなくなったら、なにを目標に走ればいいのかわからない。だからやめる』と」
――その時、井上さんはなんと?
井上「僕も生涯漫才師でいたいという気持ちは同じでした。でも、そのためには、テレビの仕事をがんばらな、漫才を続けられないという思いもあったんです。だから、『行くぞ!』と」
石田「でも僕が『なんでやねん?』言うて」
井上「俺が行く言うてねんから行くぞ!」
石田「やめとこうや」
井上「いいから行くぞ! ぐだぐだ言う暇があったら、お前は、おもろいネタを書け!」
石田「『あ、はい』って。僕は本当にハートが弱いんで、こういう相方やないとダメなんです。だから、井上さんがNON STYLEの社長で、僕は下請けなんですよ」
井上「僕らはNON STYLE(株)ですから」
石田「でも、いざ東京に行ったら、ものすごく漫才に向き合う環境が整ったんです。仕事もない。知り合いもいない。もう、漫才を書くしかなかった。しかも、ありがたいことに、ルミネの出番はあったから漫才はやることができて」
井上「だから、今回は僕らが優勝できましたけど、その結果は、たまたまやと思うんです。たまたま、僕らが一番『M-1で優勝したい!』と、願い続けただけじゃないかという気がするんですよね」
http://www.pia.co.jp/interview/52/index.php

スターダムを駆け上がる、という言葉が今最もしっくりくるコンビかも知れない。昨年のM-1グランプリを制し、号泣したのが記憶に新しい「NON STYLE」石田明(28)は「人は寝ないと静脈が浮き出て緑色になると知った」と目の回るような忙しい日々を過ごす。
M-1決勝では「しゃべり出した瞬間から感動を覚えていた。あこがれの舞台でこんないい出来の漫才ができてるという自分に対して興奮した」とそれまで味わったことのない感覚に襲われたという。もう一人の自分が漫才をしている自分を冷静に見ていたからこその栄冠だった。
石田が声を荒らげることはめったにないが、相方の井上裕介(28)にブチ切れたことがある。昨年3月、翌4月からの東京進出を控えて大ゲンカになり、普段は「アイツが社長でボクが下請け」というほど井上に従順な石田が、この時ばかりは酒の勢いも手伝って別人になった。
「M-1に出れる年までは一緒にやるけどそれが終わったら解散や!お前はタレントでも何でもやれ!!」
衝撃の“解散通告”。同席していた吉本興業社員が止めてなんとか収まったものの、井上は涙を流したという。
ケンカの原因は芸人としての方向性の違い。石田は漫才にこだわり、舞台ありきの考えだが、井上はタレント志向が強く議論はいつまでたっても平行線をたどった。
「井上はてっぺん獲りたいという考えが当たり前やと思ってる。でもボクはより多く漫才をしてじかにお客さんに楽しんでもらいたいんです」
ただ、通告は今では無効だ。「(勢いで)言うてもうただけ。井上も酔いすぎて覚えてないと言ってたんで」と解散危機はとりあえず回避した。むしろ「東京に来てからしっかり話し合うようになったし、井上も漫才に対して真剣になったと思う」と結束が強まったことも結果につながった。
石田は「優勝したいと思ってたけど自信はなかった」と振り返るM-1。しかし、実は予兆があった。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/column/yoshimoto/KFullNormal20090122160.html
漫才は90点も…/ノンスタイル石田明(下)

プロになってからも舞台に立つ前は緊張のあまり毎回嘔吐(おうと)した。時折ではない。毎回だ。それが昨年は1回もなかったという。
「慣れたんじゃない。ぬかりなく準備ができたからなんです」。これまでM-1で負けても悔しいと思わなかった石田が、一昨年に準決勝で敗れた時、初めて悔しさを感じた。「1年かけてM-1に対して頑張ると思ったくせに頑張れなかった時があった。気持ちの差で負けたと思ったら泣けてきた」。昨年の努力を振り返った時、「自信」という名のヨロイを身に着けた石田は決して吐かなくなっていた。
それでもいまだに芸人に向いてないと思うことがあるという。そんな石田を救った言葉がある。
「お前は自分で向いてへんと思いすぎや。ふざけんな。向いてないのにここまで来れる世界やと思うなよ。お笑いはそんな簡単なものやない。お前は向いてんねん。意識が高すぎる。もっとゆっくりせえ。ゆっくりしてもお前は人より頑張れてるから」
発言の主は麒麟・田村裕(29)。石田は「すごく気が楽になった。今でも弱気になった時は思い出す」と話す。
そんな石田も漫才師としての自分には「90点」と高く評価した。ただ、テレビ人としては「15点」と低評価。ストリートで鍛えた大きな声も「テレビでは大きすぎる。逆に1ランク落とさんと周りとのバランスが取れない」と頭をかいた。今後、急激に増えるであろうテレビ出演は毎回毎回が勉強の場だ。
「最終的には両方100点と言えるようになりたい」。石田はテレビ人としても活躍することを声を大にして誓った。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/column/yoshimoto/KFullNormal20090124198.html
「イキリ」キャラも余裕なし/ノンスタイル井上裕介(上)

「本番では相方の石田がべらぼうに泣いていたので泣いたらアカンと。それでも耐えきれなくなりました。優勝したときはただ“ウオ~”って大きな声を出したかった」
決勝では漫才にとにかく集中した。センターマイクを挟んで井上の立ち位置からは7人の審査員の顔が見えた。島田紳助(52)、松本人志(45)、上沼恵美子(53)ら一流の顔ぶれ。「7体の大仏が並んでる」と暗示をかけて舞台に立った。
若手の頃から可愛がってもらっていたタレント・大林素子(41)が340人の客席にまぎれているのが見えた。「頭ひとつデカイんで分かりました。あれでリラックスできた。最後は相方しか見えませんでしたけど(笑い)」。結果発表の直前には感謝の意味も込めて大林に手を振った。
「決勝の2本目の漫才の出だしで優勝するのが分かった。会場の空気感はすごかったですよ」。大林は漫才が始まった瞬間に王者になることを確信したという。
井上はジャケットにタンクトップ姿の「イキリ」キャラが持ち味。「イキリ」は自意識過剰のナルシストで「ええ格好しい」という意味だ。それが会見場ではまったく「素」に戻っていた。
「余裕がなかった。タンクトップもビロビロでした。汗で体に張り付いてました。テレビに出るときは絶対に直すのに気づきませんでした」
戴冠後は先輩や後輩からお祝いの電話や「おめでとう」ラッシュが続いた。今まであまり接点のなかった女性たちから「あの時、実はわたしもあなたのことが好きやってん」「わたしのこと覚えてる?」という内容のメールが約40件も届いたことにもびっくりした。
あらゆる媒体から取材が殺到するなどM-1バブルも体感中。「死ぬまでバカをやっていきたい。そのために名前を売りたい」。真価を問われるのはこれから。ノンスタはやっとスタートラインに立った。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/column/yoshimoto/KFullNormal20090125164.html
片道電車賃手にストリート漫才/ノンスタイル井上裕介(下)

「1日で4万円くらい稼ぐこともありました。今でも当時のボケ方やネタを今風にアレンジして使ってますね」
最初は実家近くの梅田の繁華街で立った。そこで泥酔した会社員に石田が「お前は根本的に向いてない。オレの下で働け」と説教された。「もうやめたい」と泣き言をいう石田を説得して三宮に場所を変更した。
毎週金、土曜日に1日2時間の2回公演。1回で20本のネタをかけた。目の前にはバケツ缶。マイクスタンドと開催予定を書いたビラ300枚を用意。「漫才やります」と書いたスケッチブックとスピーカーを石田が持ち運んで即席の“舞台”を作った。
「石田はいつも片道の電車賃390円だけ持って三宮に来てました。終わってから朝まで飲み明かすのが楽しかった」
一度、ケンカしながら歩いているヤンキーのカップルに八つ当たりされた。スピーカーを蹴られ、井上が胸ぐらをつかまれて「お前ら、なめんとんのか」と脅された。石田に助けを求めると、相方は転がるスピーカーを必死で追いかけていた。その日のことだけは忘れないという。
そのころ、若手の劇場「baseよしもと」で定期的にオーディションを開催していることを知った。予選落ちしたことで井上の負けじ魂に火がついた。気付いてみれば「base」でネタができるレベルまで勝ち上がっていた。
「銀行の口座だけ書いて」「これが手売りのチケット」「路上で漫才はええけどお金は取らないように」…。吉本興業から声がかかった。こうしてストリート漫才師は7カ月でプロになった。ただ、いつから正式に吉本入りしたかは相変わらず謎のままだという。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/column/yoshimoto/KFullNormal20090128001.html
NON STYLE 井上 裕介のイケイケブログ
NON STYLE いしだあきらの イケイケイケイケイケイケブログ
NON STYLE - Wikipedia
日々ネタがあって嬉しいわぁ
こないだ珍しく新聞を買い込んでたのは この記事があったからで
バックナンバーがネット掲載になって やっとカラー写真が見られた
上京時にいろいろあったとは聞いてたけど 解散宣言までしてたとは・・・
こんなに性格が正反対の二人だもんねぇ だからいいんだけどさ
ここんとこ毎日どこかのテレビに出てるけど
ひな壇芸人としてはまだまだの部分も多そうな二人
冠番組を早く持てるようになって欲しいなぁ
・・・・・その頃まで マイブームが続いているかは・・・なぞ。(笑)
NON STYLE インタビュー/@ぴあ
史上最多4489組の頂点に立ち、M-1グランプリ2008の王者となったNON STYLE。早くからその実力を評価されながらも、ことM-1においては準決勝止まりだった彼ら。初めての決勝進出、そして優勝。その裏には、「生涯漫才師」を目指すふたりの「必死の魂」があった――。
――今回は、改めてM-1グランプリ2008を振り返ってもらえればと。まず、決勝の抽選で引いたネタ順は「7」でした。
石田「今思うと、あれもわけのわからん流れみたいなものがありました。僕、クジ運がめちゃくちゃ悪いから、こういう大会では、絶対に井上さんに引かすんですよ」
井上「最初で最後ですよ、こいつがクジを引いたのって。今まで穫ってきた賞レースの順番は、全部僕が引きましたから」
石田「M-1の抽選の時も、直前まで井上さんに引かすつもりやったんです。ところが、なんかしらないんですけど、抽選箱の前に立った瞬間に、バッって手を突っ込んでいて」
――そして当日。初めての決勝の舞台は、やはり緊張しましたか?
石田「緊張はしました。本番中に井上さんにも言われましたけど、汗が尋常じゃなかった(笑)。でも、僕は、2007年のM-1も2006年も、出番前の緊張感で、2回戦から、えづいていた。ところが、今回は、予選の段階から1度もえづくことがなかったんです」
――やはり、全国ツアーで場数を踏んだ経験が大きかったんですかね?
石田「そうなんでしょうね。自分の中で『1年間、漫才をやってきた』という、たしかな感覚があったから」
――その全国ツアーのタイトルが『M-1優勝したいんですツアー』。これ、芸人がよく口にする「ハードルを上げる」類いのものだったと思うんですが?
井上「それはそうなんですけど、その部分よりも自分たちを洗脳したかったんです。『俺たちは優勝するんや!』と。雑誌の取材でも、冗談っぽくですけど、『もう優勝しました、僕』とか言っていましたからね」
石田「で、井上さんがビックマウスを叩けば叩くほど、僕の体調が悪くなるという(笑)。僕、M-1決勝の前後で3キロ痩せてますから」
井上「僕は『M-1優勝する!』って、玄関に貼っていましたからね。その横に『ダイエットする!』とも貼っていたんですけど、そちらの目標はいまだに達成できていません(笑)」
――なるほど。M-1で優勝するためには、様々な要因があったと思います。でも、ただひとつだけ、M-1優勝の理由を選ぶとすると?
井上「僕がいいこと言いましょか? 石田です! 石田がいなかったら優勝はないです!」
石田「この流れでその答えはずるいわ! 俺が答えにくいやろ!」
井上「マジメな話をすると……、東京やな?」
石田「うん、そうですね。東京に来ることがなかったらM-1の優勝はなかったかもしれないです」
――大阪では9本のレギュラー番組がありました。東京では?
井上「わかりやすく減りました。ルミネの出番とヨシモト∞の仕事だけ。さすがに焦って、4月と5月は、毎日ホームレスになる夢をみて、“うわっ!”と思って起きてました」
石田「ハートの強い井上さんが焦ったのは、ほかにも理由もあったんです。実は僕、M-1に挑戦できるコンビ結成10年の期間までがんばってあかんかったら、『解散しよう』と言って東京に出てきてましたから。『俺は生涯漫才師でいたい。M-1に挑戦できなくなったら、なにを目標に走ればいいのかわからない。だからやめる』と」
――その時、井上さんはなんと?
井上「僕も生涯漫才師でいたいという気持ちは同じでした。でも、そのためには、テレビの仕事をがんばらな、漫才を続けられないという思いもあったんです。だから、『行くぞ!』と」
石田「でも僕が『なんでやねん?』言うて」
井上「俺が行く言うてねんから行くぞ!」
石田「やめとこうや」
井上「いいから行くぞ! ぐだぐだ言う暇があったら、お前は、おもろいネタを書け!」
石田「『あ、はい』って。僕は本当にハートが弱いんで、こういう相方やないとダメなんです。だから、井上さんがNON STYLEの社長で、僕は下請けなんですよ」
井上「僕らはNON STYLE(株)ですから」
石田「でも、いざ東京に行ったら、ものすごく漫才に向き合う環境が整ったんです。仕事もない。知り合いもいない。もう、漫才を書くしかなかった。しかも、ありがたいことに、ルミネの出番はあったから漫才はやることができて」
井上「だから、今回は僕らが優勝できましたけど、その結果は、たまたまやと思うんです。たまたま、僕らが一番『M-1で優勝したい!』と、願い続けただけじゃないかという気がするんですよね」
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