現場から:幻の能代空襲 運命変えた「気圧の谷」 /秋田
1月24日13時2分配信 毎日新聞
 能代市在住のルポライター、野添憲治さんが米国立公文書館所蔵の資料から見つけ出した、米軍戦闘機による旧陸軍能代飛行場の攻撃計画。野添さんは「天候が良ければ、能代が激しい空襲に見舞われていた可能性がある」と指摘する。戦後63年目に明るみに出た、幻の「能代空襲」。その謎に迫ってみた。【田村彦志】
 ◇岩手・松尾鉱山では甚大な被害
 ■実戦報告書
 野添さんが資料を見つけたのは昨年12月。戦時中に国内で強制的に働かされていた朝鮮人の実態を調べていた国立国会図書館(東京都千代田区)にあった、米国戦略爆撃調査団(USSBS)の実戦報告書のマイクロフィルムがそれだった。
 報告書によると終戦直前の1945年8月9日午前9時40分、戦闘機グラマンF6F―5型ヘルキャット16機が岩手沖にいた空母エセックスから発進。露天掘りの鉱山施設や宮古湾内の船舶を破壊して帰還した。
 資料の中に「サムプソン少佐は本州北部の戦闘機掃討のため発進した。特定目標は能代離着陸場であった」と記され、実は爆撃の標的は能代飛行場だったことが分かった。
 ■目標遮へい
 しかし、本来の目標への攻撃が実行されることはなかった。その理由について「雲低高度の低さと密雲のため、目標が完全に遮へいされていたので、攻撃目標を変更した」と記述されており、悪天候が変更の最大の要因だったようだ。
 野添さんが秋田地方気象台に問い合わせたところ、この日は気圧の谷が通過した影響で悪天候に見舞われ、能代を攻撃できる状況でなかったことが分かった。
 替わりに空襲を受けた鉱山施設は、東洋一の硫黄鉱山として知られた松尾鉱山(岩手県八幡平市)といわれている。米軍機はクレーン、鉄道支線、製錬炉などに次々と爆弾を投下、甚大な被害をもたらした。基地への帰途には宮古湾内の船舶に機銃掃射、3隻を沈没させている。
 能代市には特攻隊の訓練施設となった能代飛行場に加え、戦闘機「ゼロ戦」や爆撃機「銀河」の部品、砲弾を製造した秋木機械、木造船を量産した松下造船能代工場など大規模な軍事施設があった。もし目標が変更されなければ、能代飛行場にとどまらず市街地も空襲の炎に包まれていた可能性がある。
 ■解けた疑問
 終戦の年の5月以降、県内にもB29がたびたび飛来。8月14日には93人の犠牲者を出した土崎空襲があったが、能代は空襲を免れ、米軍にとってはまさに“幻の空襲”に終わった。
 野添さんは「戦局のヤマが見えていた米軍は当時、日本本土への上陸に備えて毎日のように艦載機を発進させ、東北各都市の航空機関連、船舶輸送、港湾の各施設を優先して攻撃していた。格好の目標だったはずの能代の軍事施設が戦時中に無傷だったことを長い間、不思議に思っていた」と話す。
 同じ日のほぼ同時刻、やはり天候による目標変更で空襲を免れた都市が他にもある。軍需工場があった福岡県の小倉(現北九州市)。替わって長崎市に原爆が投下されたのは、午前11時2分のことだ。
 厚い雲がある都市を守る一方で、別の場所に大きな被害をもたらしたという史実。記録を前に、野添さんは「運が良かったと言えばそれまでだが、何とも複雑な思いにかられる」とつぶやいた。
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 ■ことば
 ◇能代飛行場
 戦時中、能代市北部に広がる東雲原に整備された旧陸軍施設。広さは3000ヘクタールともいわれた。戦後は閉鎖され、開拓地になった。県立能代西高校舎周辺が旧兵舎跡といわれている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090124-00000095-mailo-l05

能代飛行場


数日前 このニュースが出たとき
うちの親は ものすごーーーく納得していた

親は小学校に入ったばかりくらいの年ごろで
母は 疎開までしていた
終戦前日の土崎空襲は 能代が無くなったと思ったそうな

攻撃対象であることは 地元の人間はみな知っていたって事で
でも あんなに広大な施設が なぜ無傷で済んでいたのか
ずっと心の隅では疑問だったよう

お天気に救われたわけだった


でもその後 2度の大火で焼け野原になっちゃったんだな
ゆえに親父は 高校時代からの写真しか持ってない。



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