第三回高尾山古墳を知ろう学習会(改訂版) | == 肖蟲軒雑記 ==

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ツボに籠もっているタコが、「知っていても知らなくてもどっちでも良いけど、どちからというと知っていてもしょうもないこと」を書き散らすブログです

 『高尾山古墳を知ろう学習会』の3回目が昨晩(1022日、午後6時半~8時)行われた。平日の帰宅時間(あるいは夕食の時間)ということもあり、参加して下さる方が少ないのではないか、と間際までやきもきしていたが、蓋をあけてみれば130名と盛況であった。

 

 講師はローカルラジオ局(静岡放送:通称SBS)で、長年(27年間)「すっとん昔話静岡」という番組の制作に携わっておられる民俗学者の八木洋行氏であった。タイトルは「高尾山古墳は沼津の誉れ」。

 考古学の専門家による成果紹介について言えば、1、2回目の講演会で既に語り尽くされた感があり(高尾山古墳の発掘成果自体が驚愕の事実だったが、新しい発掘がない以上そうそう新発見はない)、視点を変えた内容が期待された。

 

 講演の内容は、講師ご自身が関わっている昔話、古墳造営地とは別の遺跡から出土した土器から類推される食文化との関連、諏訪の御柱祭、若山牧水の「千本松原を守る記事」への言及など、多岐にわたるものであった。集中して聴いていないと「とっちらかった」内容と受け取られかねない危険をはらんでいたとも思う。だが、私は講演にはいくつかの大きなメッセージがあると感じた。

 

 それらを私なりにまとめると、


①「古墳を生かしたまちづくり」に対して、古墳を点として捉えるのではなく、伊豆、静岡中西部、山梨など他地域と関連させて考えなければならないということ。




 

②「まちづくり」にはものがたりが必要であること。




 

③ものがたりや呼びかけは柔らかく語るのがよいこと。

 


である。


まず①について。


 前2回の講演、特に2回目の講師赤塚次郎氏NPO法人古代邇波の里文化遺産ネットワーク理事長)が、古墳成立期の事情として言及しておられた、東西を繋ぐルートと山と海を繋ぐルートの交差点に沼津が位置しているということだ。現在もある食文化と関連させて考えても、他の地域との交流は大きかったことが推測できる。そういう歴史の中で沼津の地がどのような土地になってきたのか、という感覚を共有できれば、高尾山古墳には、より大きな価値が生まれると思う。八木氏は、これを「沼津学」として提唱されている。




 以下は私見に過ぎないが、この地域間の繋がりを横糸と考えれば、縦糸は時のながれ(=歴史)であろう。以前文化財センターの方に指摘されて気づいたことだが、沼津には旧石器時代に始まり、縄文期、弥生期、古墳時代(高尾山古墳だけでない!)、飛鳥・白鳳期~江戸期と各時代の遺跡・旧跡・文化財が一通りそろっている。主立ったものを挙げてみても、

旧石器時代=休場遺跡(愛鷹山麓)、古墳時代=高尾山古墳、白鳳時代=日吉廃寺(駅の東、大岡)、室町~戦国時代=興国寺城趾、長浜城趾、江戸時代=松蔭寺(臨済宗中興の祖、白隠慧鶴の寺院)

と、それぞれの時代にこの地が果たした役割を語るにふさわしいものがある。




 こういったものを体系的に知ることができれば、そして、それらをきちんと紹介できるような博物館や観光ガイドをつくれば、住んでいる我々だけでなく、訪れる人にとっても魅力のある街になるのではないだろうか。行政に働きかけるのは言うまでもないが、私たち市民一人一人が学んでいくことこそ重要であろう。

 

 


次に②について。

 


 八木氏ご自身が藤枝在住であることから、居所近くの焼津と関連して語られた内容が印象的であった。焼津(あるいはもっと東に広げて草薙まで一帯)は、『古事記』や『日本書紀』に描かれるヤマトタケル東征譚中でも有名な戦の舞台である。

 八木氏によれば、子供の頃は「悪い賊がヤマトタケルを襲った」という話だけであり、「オレたちのご先祖は賊かい!」と劣等感ばかり感じていたそうである。しかし、仮に高尾山古墳被葬者がスルガの王であり、『魏志倭人伝』に書かれている卑弥呼の敵対勢力狗奴国の卑弥弓呼だとすると、ヤマトの王権とスルガの地を守る人々との戦いの記憶がヤマトタケル火攻めの話として語り継がれたとも考えられるそうである。

 この発想は以前のブログで書いたショーもないものがたり のプロットと相通じるものでありニヤニヤしながら聴いていたのだが、それはともかく八木氏は、「こう考えると、今の静岡に住んでいたかつての先祖たちは単に賊として貶められる存在ではなく、自分たちの国を命がけで守り敗れた人たちかもしれない、という物語を紡ぐことができる」と述べられた。

 もちろん文字史料は(たぶん)残っていない。従って、いつまでたっても裏付けのある話にはならないだろうが、このようなロマンを語っても良いのではないだろうか。そういう物語があってこそ、古い時代の遺跡(=高尾山古墳)は身近なものになると信じることができる。



 ただ、この際忘れてはならないルールがあると私は思う。あくまでも出発点は検証可能な仮説を提示している正統な学問成果でなければならない、ということである。考古学や史料学など検証可能な学問の上に立脚した物語を創作してこそ、多くの人に受け入れられるのではないだろうか。以前の記事の物語は、きちんと学術成果を学んだものではなかった。改訂版のものがたりを紡ぐべく精進したいものである。

 

 

最後に③について。


 沼津の市章は松の葉をデザインしたものであるように、駿河湾沿いに拡がり我が家の前にもある千本松原は、市のシンボルとも言える存在である。しかしこの松原はかつて危機に瀕した。そのとき保存運動があったので現在の姿があるのだが、このきっかけとなったのは若山牧水の随筆(新聞寄稿?)である。八木氏はこの記事に言及されていた。この記事 を読むと、牧水は強硬に保存運動を主張しているのではないことがよくわかる。ほとんどの部分で、松原の植生の豊かさや鳥たちのことを通してその美しさを語っている。そして、ただ最後の部分で、

 

 今一つ、それよりも更に悲しい事は、この千本松原の統治者である静岡縣の縣廳側が、この唯一無二ともいふべき松原を伐り拂はう伐り拂はうとしてゐるといふ噂を聞くことである。萬が一この噂が實現されたならば、斯うした松原はもう永劫に見ることは出來なくなるものと見ねばならぬ。日本の名所が一つなくなるものとしてわたしはそれを悲しみ嘆くのである。(大正十五年三月二日沼津市千本松原の蔭の家にて)

 

とだけ、伐採に対して言及しているに過ぎない。しかしこの言葉がたくさんの人々の胸を打って保存運動を喚びおこし、その結果松原は今日ある姿で保たれている。


 古墳保存についても、同じ事がいえるのだろう。11月に予定されている協議会まで残された時間は少ない。署名の集まり具合もいまいちだ。焦る気持ち、そしてもどかしさを誰かにぶつけたく激高したい感情もよくわかる。皆同じ気持ちなのだ。しかし、そういう状況にあってこそ、牧水のように柔らかく語ることこそ、多くの人たちの共感を得るものとなるのではないだろうか。

 

 

最後に



 八木洋行氏は、講演の中で沼津市特に高尾山古墳保存活動に賛同の気持ちを終始送って下さった。

 特に、ヤマトタケル東征譚を語られた下りで、「(本当にあったことかどうかはわからないが)このような戦だったとしたら、藤枝(あたり)も沼津もかつては仲間だったと思う。皆さんの(活動の)中に私(藤枝)も加えて欲しい」と仰ったことは、保存活動に寄り添って下さるという、心強いメッセージなのだと思う。

 不愉快な思いをされる不手際もあった。心からお詫び申し上げると共に、改めて、すばらしい講演をして下さったこと、心から感謝申し上げたい。






そんなわけで、『科捜研の女』第2話の感想記事は明日以降に持ち越しである。録画は昨晩遅く視聴済み。ストーリーはひねりが効いていて、堪能できるものであった。しかも私にとって長年なじみのある蛍光が登場するとあっては、語り尽くしても語りきれないような余談になりそうであり、自粛しなくてはならないかもしれない。