== 肖蟲軒雑記 ==

== 肖蟲軒雑記 ==

ツボに籠もっているタコが、「知っていても知らなくてもどっちでも良いけど、どちからというと知っていてもしょうもないこと」を書き散らすブログです

この地に居を移してからずっと飼育し続けていたシマミミズがモグラに食われて(ほぼ)全滅したのが2年前の秋のことでした。ずっと我が家の生ごみ(除く、魚介系&柑橘類)の処分をしてもらっていたのでどうしようかと思っていた頃のことです。
市のゴミ問題を考える会で聞いたのは、「キエーロ」という土にそのまま埋めれば生ゴミのほとんどは分解されるというゴミ処理装置(?)の話でした。考えてみれば、土は微生物の宝庫、生態系でいうところの分解者でひしめいているはずです。

 

そこで思いついたのが、わざわざ「キエーロ」のような大掛かりなものを準備しなくても、家の庭の土にそのまま埋めても良いのではないか、ということでした。ミミズさんだと、柑橘系のリモネインが良くないとか、タンパク質系の生ゴミだと食べ残しが腐敗の元になり下手をすると還元的環境になってしまうとか色々気を遣うのですが、土に埋めるだけならそれほど考えることはなさそうなので実行することにしました。

 

で、あれこれ埋めておくと生ゴミに混ざっていた種が発芽します。下の写真は発芽したアボカドたち。

 

 

 

南方系の植物なので冬を越すことはできないだろうと高を括っていたのですが、あにはからんや、枯れずに越冬してしまいました。右手前フェンス側のものをはじめ、これで二冬越したことになります。実がなるほど大きくなるかどうかはわかりませんが、ちょっとした楽しみなのです。

 

さて、豆苗というと緑化したエンドウの新芽ですが、スーパーで買ったものを一度使っても、根元の豆の部分を水に浸しておくと、1週間ぐらいでもう一度使えるお得な食材です。昨年の末のこと、「3回目はないだろう」と生ゴミとして埋めたところ、再び芽を出しました。春になるまでに残ったものは1株だけでしたが、大きく成長したので支柱を添えました。一緒に埋めた他の生ゴミが肥料になったのでしょうか、育ちがよく先月の中頃から赤紫色が美しい花がいくつも咲きます。

 

 

そして花は実となり、キヌサヤができました。昨日は6つ収穫し、天ぷらで食しました。

 

花はまだ咲き続けそうで、あと何回かはキヌサヤを買わずに済みそうです。三度お得な豆苗でした。

私と懇意な小島健布師が住職をつとめておられる阿野全成(源頼朝の異母弟)ゆかりの大泉寺では、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』以降、阿野全成の忌日(ごろ)にあわせて阿野祭を開催しています。私も毎回お手伝いしています(去年は天候不順のため残念ながら中止でした)。

今年は下の写真のように6月22日(日)に行われますので、どうぞお越しください。

 

 

お寺には全成、全成の子阿野時元と一緒に、三代将軍源実朝を暗殺したこと(だけ)で知られている公暁の位牌が伝わっています。公暁はそういう「やらかし」をしているためか、どこにも供養する墓がありません。ドラマをきっかけに公暁の供養塔を建立したいという機運が盛り上がり、クラウドファンディングという現代的な勧進を経て、この度めでたく建立される運びとなりました。
上述の第4回阿野祭では、その建立式が行われます。

供養塔は五輪塔です。その祭のときに、私は五輪塔の歴史をご紹介するトークを受け持つことになりました。


(ここまでは前振りです)

先日その取材を兼ねて、つくば市小田にある旧三村山極楽寺跡五輪塔を訪問することができました。
小田というと、国指定史跡になっている小田城跡が有名です。南北朝の時代、北畠親房が小田一族とともに立てこもり戦ったところ、また彼が『神皇正統記』を書いたところとして知られています。極楽寺跡はそこから程近い宝篋山と呼ばれる山のふもとにあります。
頂上に宝篋印塔があることから、この名がついたそうです。宝篋山はハイキングコースが整備されていることでも知られており、頂上まで2時間ほどのコースがいくつかあるようです(つくば市の公式サイトをご覧ください)。しかし、今回は時間と体力の都合上、頂上は目指さず五輪塔までのショートコースです。


私がレンタカーで訪れた日も、駐車場はほぼ満員。五輪塔の写真を撮るだけの格好しかしていなかった私とは違い、本格的にハイキングをすべくスティックを持ち、ちゃんとした靴を履いている人たちばかりとすれ違うのでした。

雲がかかり日差しはなかったものの暖かな中、まだ水もはられていない田んぼの中の道を通り目的地を目指します。正面に見えるのが宝篋山。おお、頂上に何か見える!(矢印)

 

でかい宝篋印塔だなあ…
いいえ、あれは電波塔です。鎌倉時代にいかに大きな石像物が造られたからといって、あんなに巨大なものは無理でしょう。

でもシルエット、ちょっと似てません?
設計者がわざと形を寄せたのだとしたら、良いセンスだと思います。

少し歩くと道の傍に石造の仏龕(ぶつがん)に安置された地蔵菩薩像があります。

 

★仏龕とは、仏像を安置するために岩壁の側面を削って窪ませた小部屋のことですが、発展して室内で仏を収める厨子になりました。この像の場合、花崗岩の板で周囲を覆っているので、仏龕と厨子の中間と言えるかもしれません。

 

龕の奥壁には、下のような銘記が刻まれています。正應二年というと1289年、鎌倉時代の後期になります。

横にあった解説によれば、檀那の左衛門尉とは小田氏四代目の時知か五代目の宗知と推定されるとのこと。小田氏というとあまり馴染みがないかもしれませんが、『鎌倉殿の13人』に登場した八田知家の子孫です。もっとさかのぼると、去年の大河ドラマ『光る君へ』で登場した藤原道兼の子兼隆とまひろの子賢子の間に生まれた兼房の曾孫が八田知家ということになるのだそうです。

また、前述の小田城に北畠親房と立て籠ったのは宗知の孫にあたる治久です。


それはともかく、右にある「法界衆生平等利益のため」というのは、現世に極楽浄土をつくることを目指してゼネコンにより人々の生活環境を整えるとともに雇用を創出し、収益でハンセン病患者の救済施設を経営した律宗に帰依した人ならではのことばといえます。硬い花崗岩を用いた造像は、ゼネコンを支えた石工集団の技術力の高さを物語ります。

 

 

しばらく歩くと、最初の写真で遠目に見えていた白い花の咲く木々があるところに着きます。白い花はコブシです。美しい花とともに、絶え間なく聞こえるウグイスのさえずりが春の訪れを実感させます。

 

このあたり一帯は現在極楽寺公園と呼ばれているところで、かつては大伽藍のあったところです。寺院は地蔵菩薩像が造られるよりも少し前の建長四年(1252)から正嘉二年(1257)のころ、律宗のNo.2だった忍性によって大きな寺院になりました。しかし、戦国時代になって戦火に焼かれて滅んでしまったそうです。

 

★忍性や律宗の事績については、古いぷらタコりの記事で簡単な説明をしています。

 

 

境内だった(だろう)ところには当時を偲ぶものはほとんど残っていません。唯一わかるのが私が目的にした五輪塔です。木立に囲まれて堂々と立っています。

 

 

台座にも精緻な彫刻が施された、バランスの良いシンメトリーの塔はやはり前述の石工たちの技の結晶と言ってよいでしょう。木と比較してもその巨大さがわかりますが、対象となる人間が写っていると尚更良いと思い、タイマーで撮影したのが次の写真です。

 

 

三脚を持っていなかったので、解説板の上に乗せて撮ったため構図があまり良くありませんが、基礎を除くと276cmの高さ、台座も加えると3mを越える巨大さがお分かりになるのではないでしょうか(私の身長は170cm)。

これで私の当初の目的は達成しましたので、あとは余勢をかって小田城を訪問しました。城の写真や解説は、もっと詳しい畏友のご紹介を待つとして、城近くの展示施設にあったたくさんの小さな五輪塔を最後にお目にかけます。

 

 

これらは寺院のあったあたり一帯から、工事の際に出土したものだそうです。木は燃えてなくなっても、石はそれなりに長持ちすることがよくわかります。


最後に、大泉寺で建立が計画されている公暁供養塔は、これらの五輪塔サイズのもので、決して山中にあった巨大なサイズではないことを申し添えます。


 

前の記事で見たように、新薬師寺の十二神将像はどの像も表情豊かに造られた像であり、像群としての動きもさまざまなものがあって飽きることがない。ただ、この十二神将は、ちょっと変わったところもあるのだ。

 

 


【2つの呼び名をもつ像がある】
たとえば、山本勉氏の著作『仏像 日本仏像史講義』[1]を見ると、第二講ではAとLの2像が写真付きで紹介されているが、それらの名前はA波夷羅、L迷企羅となっている。これはどういうことかというと、明治に像群が旧国宝に指定されたときの呼び名なのである(なので文化財としての正式名称)。
下に紹介する対比表をご覧になればおわかりのように、E、H、I、Kを除く8体(全体の2/3)の寺における呼び名が国宝に指定された後に変わってしまった。1947年(昭和二十二年)頃のことと考えられる。

 

それは、この年発刊された全國書房の『新薬師寺』で著者の福岡隆聖氏(当時の新薬師寺住職)がこのように述べていることからわかる。

以下は参考文献[2]に挙げた仏像研究者久野健氏の論文からの抜粋である。ちなみに久野氏は、初めて仏像研究に光学的手法(X線による胎内調査)を用いたことで知られている。
(なお、上記福岡隆聖氏の著作は遠隔地の図書館にしかないため、残念ながらオリジナルを確かめることはできず、孫引きになってしまった。)

 

「いま十二体の尊像を仔細に観察してみますと、これは太秦広隆寺と北条坊の像に酷似してゐ、恵什鈔の儀軌に符合してゐます。十二神将の儀軌にはこのほかに覚禅鈔と九院仏閣鈔などがあって、興福寺東金堂や高野山桜池院の像は覚禅鈔又は玄証本と同じであり、九院仏閣鈔による像としては比叡山根本中堂の像が代表的なものであります。」


「表に示す様に二、三を除く外は全く恵什鈔の儀軌と一致してゐます。持物を印象で表はしたり、両手の持物の一方を略することなどは作家意欲によるもので他の尊像にもよくあることです。」


★ 儀軌とは、仏像の手の形などの姿勢や持物、あるいは供養の仕方などを細かく規定した書物のこと。仏像彫刻にあっては、造像の基準になる。
★ 福岡氏が一致しているとした『恵什鈔』は、正式には仁和寺の僧侶恵什による『図像鈔』のことである。仏の姿を文言だけでなく図像を用いて体系的に表している。成立は平安末期〜鎌倉期と考えられている。最古の写本は建久四年(1193)のもので京都醍醐寺に伝わっている(国重要文化財)[3]。
★ 表にある干支は別記事で解説予定。また、表の像の順番については後述。


1924年(大正十三年)に會津八一が著した歌集『南京新唱』の中で、彼は十二神将像の歌も詠んでいる。

 

旅人に 開く御堂の 蔀より 迷企羅が太刀に 朝日射したり

 

拝観に訪れた旅人のために、明るくするため蔀戸が開かれた。そこから射しこんだ朝日の光が迷企羅像の太刀を照らし、素晴らしい像の姿になった、とでもいうような意味だろう。射しこむ朝日で輝く太刀と陰影のある顔立ちのコントラストが目に浮かんでくる。

さて、こんにち寺院で迷企羅と呼ばれているCの像は手刀を挙げているので、この迷企羅は国宝指定時の像Lのことを指す。

晩年、八一は自身の出した歌集をまとめ、それらに膨大な註をつけ『自註鹿鳴集』[4]を著した。これが、今簡単に手に入る彼の歌集だが、その中で彼は、十二神将の名については、日本に現存する神将像の中で最も古いので、(像群全体として見ると)後の時代に定まったどの儀軌にも合わない。だからそういう場合は、それまで寺院で呼ばれていた名称に従うのが良い。実際自分が訪れた時には、本尊右側に立って「太刀を抜き持ち、口を開きて大喝せる様にて、怒髪の逆立したるこの一体」の像の下には迷企羅大将の名標が置いてあった。だから、私はこれを尊重してこのように詠んだのだ。ということを書いている。そして、名称変更については、「現住職福岡師の勉強にて、この群像は最も『恵什鈔』に近きことを発見し」変えられたと述べている。勉強とはいささか皮肉のこもった表現である。そして、儀軌との比較については「密教が我が国に渡来せる後に、やうやく盛に行はれ来たりしことなれば、それ以前の古像を、之を以て律することは、この歌の作者の躊躇せんとするところなり」と手厳しい。自身の歌が台無しになってしまったのだから、やむを得ないところだろう。

一方、久野健氏は先の引用のあと下記のように評している。
「この十二神将像が制作された天平時代は、まだ儀軌の充分ととのわない時代であり、また現在神将像の持つ持物はいずれも補作のもので、尊名の問題はなお研究を要すると思われる。」
いかにも研究者らしい抑えた表現だが、(造像当初の持物はわからないから)後から作り直されたのが明らかな持物(だけ)をもって名称を変えるのは早まっているのではないか、との批判である。


このような批判があったものの、こんにち、多くの人は新薬師寺が呼んでいる名称に馴染んでいるのではないだろうか。ちゃんとした書籍なら、伐折羅像(迷企羅像)、ただしカッコ内は国宝指定時の名称、と両方を書いているが、変更からやがて80年、福岡氏によって変更された像名(特にLの伐折羅像)が定着してしまった感がある。西川杏太郎氏(奈良国立博物館館長などを務めた彫刻史研究者)は、「学問的にどれが正しいとは言えない」と述べておられる[5]。私は、寺院が呼ぶ名称を尊重するのが正しいと思うので、前記事で紹介した名称から国宝指定時の名称に、いまさら戻す必要はないという意見である。ただ、福岡氏の文章を読むたびに「ボクの考えた正しい十二神将の名前!」という印象は持ってしまうのである。

 

ちなみに、十二神将像全てを一体ずつ写真入りで紹介している書籍で最も新しいのは、2011年に淡交社から刊行された『古寺巡礼 奈良10 新薬師寺』[5]である。著者の一人が現在の新薬師寺住職中田定観氏なのだが、ここでの神将像の名称は迷企羅(伐折羅)のように国宝指定時名称(福岡氏発見名称)となっている。

【像の並びが…】

十二神将の教義上の典拠は薬師経典だが、その中でも玄奘三蔵訳の『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(以下『薬師本願経』)で書かれている名前が呼び名の根拠となっている[7]。Web上を検索すると現代語訳も簡単に見ることができるが[8]、そこで書かれていることのあらましは以下のようである。

 

ある時釈迦がたくさん集まった人々の前で、薬師如来という立派な仏のことを(その内容がメチャメチャ長いので省略)語り終えたところ、聴衆の中にいた十二人の薬叉の大将が進みでて「良い仏の話を聞いて感激した。我々はこの薬師如来のことを供養する人たちのことを守り、願いごとの仲立ちをする」と宣言した。釈迦はそれを聞き、「立派なことだ」と誉めた、というようなものである。

 

経典内で薬叉の大将の名は下記のように紹介される。

 

 

上に孫引きした福岡氏の表に出てくる順番は、経典のこの箇所に由来している。今後の記事で紹介することになるが、他の寺院や博物館の十二神将はこの通りではないにしても、この順序が基準になって安置されている。ところが、新薬師寺の場合、国宝指定時の名前だとしても、今日の名前だとしても、この順序に従わない、いわば自由な順序でご本尊を取り囲んでいる。

江戸期元禄年間に書かれたとされる『新薬師寺縁起』によれば、この十二神将像は岩淵寺(現在は廃寺)という別の寺院から移されたものだそうである。本当のことかどうかわからないが、仮にそうだとすると元々は経典通りの並びだったのかもしれない[9]。もしそうなら、こんにちの配置は移された後のことになるが、どのような基準でそうなったのかも不明である。しかしながら、一つだけ言えるのは、並べた人はビジュアルをよくわかっている人なのではないだろうか、ということである。瞳の黒曜石はなくなってはいるが、眼力の強そうなAの因達羅と迫力満点のLの伐折羅を静と動の代表格として正面に、阿吽の金剛力士像と同じように配し、後ろに回るごとに動きの違う像を入れ替えて配置し、見た目のメリハリとでもいうような変化をつけているからである。

【さいごに】

『薬師本願経』で描かれる十二神将の登場は神話の異民族服属譚のモチーフに見える。ここでいう薬叉とは夜叉、すなわち鬼あるいは悪鬼として民話に登場するいわば悪役である。仏を護る四天王や梵天・帝釈天などはバラモン教やヒンズー教の神々出身であるのに対して、ちょっと変わっている。十二神将は「まつろわぬ民」が仏に帰依した姿なのかもしれない。

 

そういう先入観と偏見で濁り切った目でこの十二神将像を見ると、同じく天平の名品である東大寺戒壇堂の四天王像とはずいぶん違うように感じる。

 

 

四天王たちの姿を見ると、顔立ちはともかく、細身のスーツに身を包んだシュッとしたスタイルのエリート、という印象を持つ。正規軍の指揮官といったところだろうか。新薬師寺の十二神将たちが四天王たちよりもガッシリとした感じに見えるのは、鎧の下に衣を着ているデザインということもあるかもしれない。寒い現場で戦う傭兵隊の下士官、外人部隊の兵士たち、に見えるのである。

次の十二神将の記事では、異形の鬼を少しばかり彷彿とさせる像をご紹介できれば良いと考えている。

【参考文献】
[1] 山本勉 仏像 日本仏像史講義 別冊太陽 平凡社(2013)
[2] 久野健 新薬師寺の十二神将について 日本仏像彫刻史の研究 第十二章 吉川弘文館(1984)
    (論文の初出は、美術研究281, 1-15 (1972))
[3]  Web版新纂浄土宗大辞典より(鈔は抄と同義)
[4] 會津八一 自註鹿鳴集 岩波文庫 緑154-1 岩波書店(1998)
[5] 魅惑の仏像 十二神将 めだかの本 毎日新聞社(2001)
[6] 古寺巡礼 奈良10 新薬師寺 淡交社(2011)
[7] 新井慧誉 『薬師経』の伝える十二神将 印度學佛教學研究 20, 759-763, (1972)
[8] たとえば、このサイト
[9] 新薬師寺と白毫寺・円成寺 日本の古寺美術16 保育社(1990)