== 肖蟲軒雑記 ==

== 肖蟲軒雑記 ==

ツボに籠もっているタコが、「知っていても知らなくてもどっちでも良いけど、どちからというと知っていてもしょうもないこと」を書き散らすブログです

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 


こちらは昨日の朝、浜から見た初日の出です。今年は雲が山際にあったため、雲から出る様子しか撮ることができませんでした。

 


戻ってから食べたのは、年末に(妻8、私2の貢献度で)作ったおせちです。

 



さて今年は、丙午。現代の日本人の多くが、唯一十干十二支を意識する年なのかもしれません(60年前は出生率が低下しましたが、もしかすると今はそんなことも意識に上っていないのかもしれませんが)。

それはともかく、昨年来色々とキナ臭いニュースもありますが、平穏な日々が続く年であることを願っています。

私たち夫婦にとっての昨年は、念願だった北欧訪問が叶う年でした。最初の年賀画像の背景はストックホルムの港(の一部)です。

若干寒くなりかけた日々の訪問ではありましたが、スウェーデンではノーベル博物館をはじめとした歴史に触れることができました。なかでも現王朝の始祖が、ナポレオンの配下の将軍(で王位につくとあっさり裏切ったような人物)だったということを知ったのが収穫の一つでした(カール14世ヨハン、フランス名ベルナドット)。帰国後、ヨーロッパ近世もよくご存知の畏友に尋ねたところ、ほとんどフォローできないような早口の説明をされてしまったのもあわせて、楽しいことでした。

 



また、三十年戦争の最中に建造され、造船所から1海里も進まないうちに沈没してしまった巨大戦艦Vasa号が展示されている博物館は圧巻でした。攻撃力を求めるあまりに(大砲を積んだ甲板を増やすことで)重心がどんどん上に行き、国王グスタフ二世が乗艦することを想定したゴテゴテの装飾がさらにバランスを悪くしたからです。幸いにも、水温の低さなどから木材はほとんど朽ちておらず、65年ほど前に引き上げが開始され、20年以上の復元作業を経て1990年から博物館としての展示が始まりました。巨大な戦艦を様々な角度から見ることができるよう、建物は6階建になっており、考古学的な展示だけでなく、遺体で発見された当時の乗組員の血縁関係を調べる生物学的な展示もあり、総合的な学問に触れることのできるところでした。

 



スウェーデンから、船でフィンランドはヘルシンキを訪問しました。ご存知ムーミンの故郷です。最初の写真にも登場してもらいました。あいにくの寒々とした天候でしたが、港ではニシン祭りが開かれており、屋台で求めたニシンのフライは日本で味わう身欠きニシンとは異なった味わいの逸品でした。

 



妻の勧めで、『かもめ食堂』というドラマの中で主人公がガッチャマンの主題歌を教わったという書店にあるカフェにも行き、血糖値コントロールには悪そうなブルーベリーパイを堪能しました。

 


 


フィンランドというと、私たちの祖国日本同様、第二次世界大戦の敗戦国です。敵国はもっぱらソビエト連邦(今のロシアの大部分)でしたが、戦後処理を見事に収め、独立と中立の礎を築いた軍人にして政治家であるマンネルヘイムが有名です。その騎馬像もヘルシンキ駅近くの広場に立っていました。

 



空路でストックホルムに戻り、帰国前日は学都ウプサラを訪問しました。北欧最古の大学、ウプサラ大学のある地ですが、私にとっては研究者時代にタンパク質精製で散々お世話になったクロマトグラフィーの会社Pharmaciaの本社があった所でもあるため、是非とも行きたい街だったのです。

とはいっても、見学したのは普通の歴史的なスポットのみ。あいにくの肌寒い雨天の中、駅から20分ほどのところにある大聖堂とウプサラ城に行きました。ウプサラ城は駅方向からはなだらかなスロープの上にある宮殿のように見えるのですが、

 

 

 

反対側を覗き込むと急峻な崖と煉瓦造りの城壁と石垣があり、確かに「城だ」ということがわかります。

 



その後、バスで郊外にあるガムラ・ウプサラに行きました。

 

ガムラ・ウプサラから見たウプサラ城と大聖堂です。

 

ガムラというのは古いという意味のようで、ウプサラ発祥の地とでもいうのでしょうか、かつての支配者たちの墓が並んでいる公園があるのです。この時代の墓は私たちにも馴染みのある古墳スタイル。

 

 

巨大な墳墓が並んでいる様子は、かつて新羅の古都경주(慶州)で見た古墳公園を彷彿とさせるものでした。洋の東西を問わず、共通する古風景というのはあるのだなあ、と感じ入った次第です。

 

경주の古墳公園
 


さあ、今年はどのようなことが待っているのでしょうか?
小さな努力目標ですが、ほぼ半年に1回しか更新できていないこのブログ記事をせめて月1回更新できるようにしたいものです。



 

この地に居を移してからずっと飼育し続けていたシマミミズがモグラに食われて(ほぼ)全滅したのが2年前の秋のことでした。ずっと我が家の生ごみ(除く、魚介系&柑橘類)の処分をしてもらっていたのでどうしようかと思っていた頃のことです。
市のゴミ問題を考える会で聞いたのは、「キエーロ」という土にそのまま埋めれば生ゴミのほとんどは分解されるというゴミ処理装置(?)の話でした。考えてみれば、土は微生物の宝庫、生態系でいうところの分解者でひしめいているはずです。

 

そこで思いついたのが、わざわざ「キエーロ」のような大掛かりなものを準備しなくても、家の庭の土にそのまま埋めても良いのではないか、ということでした。ミミズさんだと、柑橘系のリモネインが良くないとか、タンパク質系の生ゴミだと食べ残しが腐敗の元になり下手をすると還元的環境になってしまうとか色々気を遣うのですが、土に埋めるだけならそれほど考えることはなさそうなので実行することにしました。

 

で、あれこれ埋めておくと生ゴミに混ざっていた種が発芽します。下の写真は発芽したアボカドたち。

 

 

 

南方系の植物なので冬を越すことはできないだろうと高を括っていたのですが、あにはからんや、枯れずに越冬してしまいました。右手前フェンス側のものをはじめ、これで二冬越したことになります。実がなるほど大きくなるかどうかはわかりませんが、ちょっとした楽しみなのです。

 

さて、豆苗というと緑化したエンドウの新芽ですが、スーパーで買ったものを一度使っても、根元の豆の部分を水に浸しておくと、1週間ぐらいでもう一度使えるお得な食材です。昨年の末のこと、「3回目はないだろう」と生ゴミとして埋めたところ、再び芽を出しました。春になるまでに残ったものは1株だけでしたが、大きく成長したので支柱を添えました。一緒に埋めた他の生ゴミが肥料になったのでしょうか、育ちがよく先月の中頃から赤紫色が美しい花がいくつも咲きます。

 

 

そして花は実となり、キヌサヤができました。昨日は6つ収穫し、天ぷらで食しました。

 

花はまだ咲き続けそうで、あと何回かはキヌサヤを買わずに済みそうです。三度お得な豆苗でした。

私と懇意な小島健布師が住職をつとめておられる阿野全成(源頼朝の異母弟)ゆかりの大泉寺では、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』以降、阿野全成の忌日(ごろ)にあわせて阿野祭を開催しています。私も毎回お手伝いしています(去年は天候不順のため残念ながら中止でした)。

今年は下の写真のように6月22日(日)に行われますので、どうぞお越しください。

 

 

お寺には全成、全成の子阿野時元と一緒に、三代将軍源実朝を暗殺したこと(だけ)で知られている公暁の位牌が伝わっています。公暁はそういう「やらかし」をしているためか、どこにも供養する墓がありません。ドラマをきっかけに公暁の供養塔を建立したいという機運が盛り上がり、クラウドファンディングという現代的な勧進を経て、この度めでたく建立される運びとなりました。
上述の第4回阿野祭では、その建立式が行われます。

供養塔は五輪塔です。その祭のときに、私は五輪塔の歴史をご紹介するトークを受け持つことになりました。


(ここまでは前振りです)

先日その取材を兼ねて、つくば市小田にある旧三村山極楽寺跡五輪塔を訪問することができました。
小田というと、国指定史跡になっている小田城跡が有名です。南北朝の時代、北畠親房が小田一族とともに立てこもり戦ったところ、また彼が『神皇正統記』を書いたところとして知られています。極楽寺跡はそこから程近い宝篋山と呼ばれる山のふもとにあります。
頂上に宝篋印塔があることから、この名がついたそうです。宝篋山はハイキングコースが整備されていることでも知られており、頂上まで2時間ほどのコースがいくつかあるようです(つくば市の公式サイトをご覧ください)。しかし、今回は時間と体力の都合上、頂上は目指さず五輪塔までのショートコースです。


私がレンタカーで訪れた日も、駐車場はほぼ満員。五輪塔の写真を撮るだけの格好しかしていなかった私とは違い、本格的にハイキングをすべくスティックを持ち、ちゃんとした靴を履いている人たちばかりとすれ違うのでした。

雲がかかり日差しはなかったものの暖かな中、まだ水もはられていない田んぼの中の道を通り目的地を目指します。正面に見えるのが宝篋山。おお、頂上に何か見える!(矢印)

 

でかい宝篋印塔だなあ…
いいえ、あれは電波塔です。鎌倉時代にいかに大きな石像物が造られたからといって、あんなに巨大なものは無理でしょう。

でもシルエット、ちょっと似てません?
設計者がわざと形を寄せたのだとしたら、良いセンスだと思います。

少し歩くと道の傍に石造の仏龕(ぶつがん)に安置された地蔵菩薩像があります。

 

★仏龕とは、仏像を安置するために岩壁の側面を削って窪ませた小部屋のことですが、発展して室内で仏を収める厨子になりました。この像の場合、花崗岩の板で周囲を覆っているので、仏龕と厨子の中間と言えるかもしれません。

 

龕の奥壁には、下のような銘記が刻まれています。正應二年というと1289年、鎌倉時代の後期になります。

横にあった解説によれば、檀那の左衛門尉とは小田氏四代目の時知か五代目の宗知と推定されるとのこと。小田氏というとあまり馴染みがないかもしれませんが、『鎌倉殿の13人』に登場した八田知家の子孫です。もっとさかのぼると、去年の大河ドラマ『光る君へ』で登場した藤原道兼の子兼隆とまひろの子賢子の間に生まれた兼房の曾孫が八田知家ということになるのだそうです。

また、前述の小田城に北畠親房と立て籠ったのは宗知の孫にあたる治久です。


それはともかく、右にある「法界衆生平等利益のため」というのは、現世に極楽浄土をつくることを目指してゼネコンにより人々の生活環境を整えるとともに雇用を創出し、収益でハンセン病患者の救済施設を経営した律宗に帰依した人ならではのことばといえます。硬い花崗岩を用いた造像は、ゼネコンを支えた石工集団の技術力の高さを物語ります。

 

 

しばらく歩くと、最初の写真で遠目に見えていた白い花の咲く木々があるところに着きます。白い花はコブシです。美しい花とともに、絶え間なく聞こえるウグイスのさえずりが春の訪れを実感させます。

 

このあたり一帯は現在極楽寺公園と呼ばれているところで、かつては大伽藍のあったところです。寺院は地蔵菩薩像が造られるよりも少し前の建長四年(1252)から正嘉二年(1257)のころ、律宗のNo.2だった忍性によって大きな寺院になりました。しかし、戦国時代になって戦火に焼かれて滅んでしまったそうです。

 

★忍性や律宗の事績については、古いぷらタコりの記事で簡単な説明をしています。

 

 

境内だった(だろう)ところには当時を偲ぶものはほとんど残っていません。唯一わかるのが私が目的にした五輪塔です。木立に囲まれて堂々と立っています。

 

 

台座にも精緻な彫刻が施された、バランスの良いシンメトリーの塔はやはり前述の石工たちの技の結晶と言ってよいでしょう。木と比較してもその巨大さがわかりますが、対象となる人間が写っていると尚更良いと思い、タイマーで撮影したのが次の写真です。

 

 

三脚を持っていなかったので、解説板の上に乗せて撮ったため構図があまり良くありませんが、基礎を除くと276cmの高さ、台座も加えると3mを越える巨大さがお分かりになるのではないでしょうか(私の身長は170cm)。

これで私の当初の目的は達成しましたので、あとは余勢をかって小田城を訪問しました。城の写真や解説は、もっと詳しい畏友のご紹介を待つとして、城近くの展示施設にあったたくさんの小さな五輪塔を最後にお目にかけます。

 

 

これらは寺院のあったあたり一帯から、工事の際に出土したものだそうです。木は燃えてなくなっても、石はそれなりに長持ちすることがよくわかります。


最後に、大泉寺で建立が計画されている公暁供養塔は、これらの五輪塔サイズのもので、決して山中にあった巨大なサイズではないことを申し添えます。