先日、
早朝散歩の途中、
東区東桜二丁目11-16あたりに建つ
夢童由里子作 「はじまり童子」
デジカメ。
↓上記デジカメの逆方面
(付記)
夢童由里子作「はじまり童子」について、
以前、
↓全体像
↓案内板…左側にありました
(付記)
恵方とは
吉方とも書く。
たたり神のめぐってこない最もよい方向とされる。
👅拡大
飯田街道は、
伝馬町から信州飯田へ通じる(岡崎から名古屋への近道)。
流通や経済を支える街道で、
名古屋城下から八事興正寺に向って斜めに貫き、
豊田市を経由して長野県根羽村、阿智村を経て飯田市へ到る道。
東区東桜一丁目2-20(旧町名、駿河町)の場所に、
「0」飯田街道と記された標識があり…0LD IIDA HIGHWAY
(追記)
旧町名、東門前町と駿河町の町名の由来…ひがしネットより引用
東門前町の町名の由来
慶長以前市内にはわずか6寺であったものが、
遷府後240ヶ寺とふえ、藩ではこの清須 越しの数多い寺院を城下の東部と南部に配し、
・前者を東寺町、
・後者を南寺町と呼び、
境内敷地は無税という恩典を与えた。
のち寺院の門前を地子として、慶長末から万治(まんじ)年間(1658~60)にかけ町並みをつくり、貞享(じょうきょう)2年(1685)東寺町の門前に当るので東門前町と改称された。
駿河町の町名の由来
慶長年間、徳川家康が往来した街道筋で、駿河街道と称していたのをそのまま町名にしたのが由来といわれる。
また一説にはこの地は冨士塚に近いので、富士山のある駿河国にちなんで名づけられたともいわれる。
伝馬町を起点として市内を斜めに走り、足助・稲武を通って長野県飯田に通ずるこの街筋は、その後飯田街道と呼ばれ、重要な交通の根幹のひとつとなっていた。
(日めくりより)
今日(15日)の言葉
『昨日の敵は今日の友』
👅
昨日までは敵だった者たちでも、事情が変わって今日は味方同士になること。
人の心や運命がうつろいやすく、あてにならないものであることのたとえ。
昨日の友は今日の仇。
👅
今まで親しかった者が、手のひらを返したように自分に反逆することをいう。
人の離合集散は当てになるものではなく、千変万化するものであることのたとえ。
(20,157歩)