江戸時代に中山道と名古屋城下を結んだ
木曽街道(上街道)について
👇名古屋市教育委員会設置の名勝標札…北区清水二丁目に設置
👇Wikipediaより引用
江戸時代に尾張藩が独自に作った街道で、
名古屋城東大手門(名古屋城下清水口)から中山道の伏見宿(現在の岐阜県御嵩町)までを結んでいた。
総距離は、10里8丁(約40km)。
途中3つの宿場町があった。
名古屋から楽田追分(現在の犬山市)までは稲置街道とルートが重複している。
🔶3つの宿場町
1.小牧宿(小牧市)
2.善師野宿(犬山市)
3.土田宿(可児市)
🔶木曽街道の終点について
太田の渡し(岐阜県可児市)中山道と合流。
渡し場が土田にあった頃は土田宿が終点だった。
時代が下るにつれ渡し場は東に移動し、今渡が終点となる。
🔶犬山宿と鵜沼宿の間の木曽川には、内田渡船舟(内田の渡し)が運航されていた。
👇別の資料より
木曽街道は、
名古屋城東大手門(名古屋城下清水口)から名古屋市北区を経て、小牧、楽田、羽黒を通り、
善師野から土田をすぎて太田宿と伏見宿の間で中山道につながる約40キロの道筋。
慶長17(1612)年に木曽谷の支配を任された尾張藩によって整備される。
別名上街道(うわかいどう)とも呼ばれています。
街道の途中には小牧・善師野・土田(どた)の3つの宿駅が設けられていた。
木曽街道が整備されたのは、元和元(1615)年の木曽山拝領の後で、小牧宿ができる
元和9(1623)年には完成したと考えられています。
街道ができる以前は、小牧村の中心は小牧山の南にありましたが、木曽街道の建設に伴って
同村は街道沿いに移動したとされている。
👇名称の由来
「木曽街道」の名称は、中山道が木曽地方に通じていたことから名付けられたが、
藩主など要人は当街道を通ることになっていたことから、庶民向けの下街道と対比した呼び方となった。
これらの他に小牧宿を通ることから「小牧街道」、
小牧宿に尾張徳川家の別荘があり、
前出の通り藩主の往来があったことから「御殿様街道」とも呼ばれていた。
また、
楽田追分までは「稲置街道」と呼ばれることの方が多く、
稲置街道が名古屋と犬山を結ぶことから「名古屋往還」「犬山街道」とも呼ばれた。
「上街道」の名称は、当時同じように中山道と名古屋城下を結んでいた下街道との対比による。
(付記)
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👇稲置街道…Wikipediaより
稲置街道は名古屋と中山道の伏見宿(現:岐阜県御嵩町)を結ぶ街道で、
途中の楽田の追分(現:犬山市字追分)で犬山への道が分岐していた。
名古屋から楽田追分までは木曽街道(上街道)とルートが重複している。
犬山城から楽田追分まで道を開いて上街道に接続させた事がこの街道の始まりである事から、楽田追分 - 鵜沼宿を「稲置街道」とする説もある。
🔶名称の由来
「稲置」とは、当時街道沿いにあった村の名称(「稲置村」現在の犬山市)から付けられた。
![「洋ちゃん」のひとりごと](https://stat.ameba.jp/user_images/20131209/16/kakashiyo/57/f7/j/o0500037312775397423.jpg?caw=800)