昨日(8日)熱田区伝馬二丁目13番3号の辺りにありました
徳川家康幼時幽居地跡、
羽城(はじょう)址に行く。
徳川家康幼時幽居地について…熱田区史跡散策路より引用
天文16年(1547)、家康が竹干代と呼ばれた6歳のとき、岡崎から駿河の今川氏へ人質に出されたが、戸田康光により織田信秀へ送られた。
家康は加藤図書助(かとうずしょのすけ)に預けられ、2年程幽居した。
建物は戦災によってすべて焼失した。
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羽城:加藤図書助屋敷跡について調べました
羽城
・立地 平城
・年代 戦国期
・城主 加藤図書助順盛
『現 況』
・城址は、
現在でも城主の後裔にあたる「加藤氏」所有(現在はコインパーク)。
・この辺りはかって「羽城町」といったが、
現在は町名変更で「伝馬二丁目」になる
・名古屋市教育委員会設置の名勝標札が建つ。
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『略 史』
城主は加藤図書助順盛(1514~88)また順光とも言う。
加藤氏は藤原氏を祖とする伊勢山田の神官の家柄で代々図書助を名乗る。
記録によると、父・景繁の代に、美濃国岩村城の落城で浪人となり、尾張の熱田に蟄居したとあり、元々は美濃国の武士でもあったらしい。
熱田では武士ではなく商人として頭角を現し、熱田湊での貿易で力をつけ、織田家からも諸役の免許を得るほど一目置かれる存在になる。
順盛(順光)の弟・隼人佐延隆は分家独立して一家をなしたため、以降、図書助家を東加藤、隼人佐家を西加藤と呼んだ。
🔶徳川家康が竹千代の頃、駿府の今川氏へ送られる時、親戚の田原の戸田氏によって捕らえられ、織田家に送られて、竹千代を預かったのが加藤図書助順盛である。
※竹千代は今川家との人質交換の話しが成立するまでこの地で過ごす。
信長が桶狭間合戦の時、熱田神宮(上知我麻神社)で戦勝祈願をした時、順盛に酌をさせ『今日は勝とう!(加藤)』と叫んだと系譜に伝わる。
加藤氏もまた200人ほどの熱田の町民たちに竹竿を持たせ、集結させて織田方の人数を多く見せる工夫などもしている。
桶狭間の戦いでは、順盛の子・弥三郎は信長の小姓として参戦し、戦後、山崎城(南区)の守将も務めたが、後年武田軍と三方ヶ原の戦いで討死。
加藤図書助順盛の嫡男順政は天正の長久手合戦に参陣したが、戦後加藤図書助の家督を継ぎ、後々まで熱田の名家として栄え現在に至る。
2016年1月19日にタイトル
「羽城(はじょう)址に行く…熱田区伝馬二丁目 : 徳川家家康幼時幽居地 」
としてブログしました。
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