中区錦通りの地名の由来を記した石碑3ヶ所を訪ねる | 「洋ちゃん」のひとりごと

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以前、この私のブログ(2015-12-6及びで、

中区錦通りの地名の由来について書きましたが、


先日、知人から、

『中区錦通りの地名の由来』を記した石碑が3ヶ所あると聞き、

昨日(10日)その場所を訪ねデジカメしてきました。

 

錦通りの地名の由来について、

(注)錦通りは地下鉄(東山線)を建設するために整備された幹線道路であり、

   広小路と桜通りのあいだの道路である。

 

南側にある広小路には人々の信心を集めた「薬師」がかってあり、

北側の桜通りには「天神」がある。


錦通りは」と「」があった場所の間に挟まれた通りである。
 

古今和歌集に、

見わたせば を こきまぜて 都ぞ春の なりける

                素性法師 の歌があり。

その和歌のなりけるから錦通り」と名付けられました。
 

『錦通や錦橋の名前の誕生』を記した石碑

①錦橋の下、堀川沿いにあり

↓ 後ろが錦通りに架かる「錦橋


②錦一丁目(東松ビル玄関前)にあり
   

↓ 反対側

③錦三丁目(名古屋銀行本店前)にあり
   

↓ 反対側…名古屋銀行本店店舗前

(付記)…参考

2015年12月16 日にブログした、

タイトル『中区広小路通り、錦通り、桜通りの地名の由来について』

の一部をコピー。

◎中区広小路通りについて、
   

上記を文献としてブログする。

(昭和55年4月7日、中日新聞社発行、著者 水谷盛光)

・1660年(万治3年)正月14日、片端筋と伏見町筋の交差点の左義長火事によって、

 城下町碁盤割のほとんどを焼失した…万治の大火

・以後、左義長は禁止されたという。

(注)1660年は尾張二代藩主 光友の時代です。

 

・このあと、道幅を広くし、広小路の地名の由来となる。

        (「金鱗九十九之塵」(こんりんつくものちり)より)

広小路の由来、

江戸時代後期に尾張の碩学である桑山好之が著した、

随筆「金鱗九十九之塵」(こんりんつくものちり)に次のように紹介している。

この町は東西が長く、西は長者町より東は久屋町筋に至る町である。

地形が広々としているので広小路と名づけた。

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 ◎桜通りの地名の由来


 

(文献)
 

 

左の本を

文献としてブログしました。

 

 

 

 

 

 

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