昨日(20日)、早朝散歩の途中に
市バス停留所;平田町➡飯田町➡東片端でデジカメ…
この区間内の南側は町名の表示変更により泉二・三丁目に変更されています。
(昭和51年(1976)に住居表示制度により地名の変更を余儀なくされる)
私「洋ちゃん」は、
平成13年まで泉二丁目内に55年間居住しておりました。
私には馴染みの(ゆかりの)区間でもあります。
平田町➡飯田町➡東片端の町名の由来を懐かしみながら調べる
(文献…ひがし見聞録)
・江戸期以来の町名。
・古くは古井村に属し、平田院(お寺)があることから平田院町といわれた。
・平田院の寺名は、平岩親吉の戒名に由来する。
(付記)
・平田院は天徳山法蔵寺と号し、平岩親吉が三河に建立したが、慶長9(1601)
親吉が犬山城から名古屋東片端筋に移ったので、平田院も同18年現在の地に
移り、寛文3年(1663)建中寺の末寺となった。
・平岩親吉は徳川家康子飼いの家来で、慶長12年(1602)松平忠吉清洲の
城主となるに際して、その国政をとり、禄高9万3千石、慶長17年(1612)
世を去る。
・平田院は平成二年(1990)に天白区鴻の巣に移転している。
・町名としての役割は終えた(消滅)が「平田町」の名がバス停、某銀行支店名
等々に残され、現在も親しまれている。
2.飯田町
・江戸期以来の町名。
・元和2年(1616)小平治という人が初めて家を作り居住したので小平治町
といった。
その後、承応2年(1653)飯田町と改名した。
↓
江戸の飯田町の繁昌にあやかる意味でこの町名を付けたという。
3.東片端町
・名古屋城の外堀の南ぞいは片側だけが武家屋敷であったので、この通りは
片端筋と呼ばれていた。
・江戸期、南外堀町は南片端、その東を東片端といっていたが、
明治5年(1872)に南外堀町に統一されたが、同11年に東片端町は復活。
・東片端辺りからは、外堀が切れており両側とも武家屋敷が立ち並んでいた町
であった。
・東片端とは、片隅の東にある町のことである。
(20,555歩)
(特記)