時折、私は己を卑下する。

 

学がない、才能がない、協調性がないと。品がない、自信がない、社会性がないと。

 

しかし、私は己を不幸だと思えども、幸福がないとは思わない。

 

いかなる人間であろうと生きている限りは幸福を感ずるものなのだ。

 

己の欲求を満たしたとき、思いがけず得をしたとき、相対的に優位に立ったとき、脳は幸福を感ずるものなのだ。

 

ならば、幸福の全くない人生というものは存在できるのだろうか。

 

欲求を満たせぬよう外的に抑制し、ただ徒に限りある時間を浪費させ、関わりと呼べるもの全てを断ったならば、完全なる不幸の人生というものは存在できるのだろうか。

 

脳という器官は、人間の持つあらゆるものの中で最上のものといって良いだろう。

 

あらゆるものを記憶に留め、あらゆるものに思いを馳せ、あらゆるものをソウゾウする。

 

ひとつひとつ挙げればきりがないほどに機能的なこの器官は、人間を人間たらしめるものであることは誰もが知っているだろう。

 

脳がなくては、私の綴る戯言も存在できないと思えば、私も頭が下がらない。

 

脳は世界を創り出す。小さな小さな頭骨には決して収まらんばかりのものをソウゾウし、時には現実のものとしてしまう。

 

ソウゾウは人間に幻想を抱かせる。時にその幻想は、現実に確かなものとして起こされることもあれば、その人だけの現実となって現れる。

 

起こされた幻想はその姿を失い現実となり、その人だけの現実は幻想としての姿を保つ。

 

ならば、あえて幻想に世界を委ねてみると良い。

 

法や秩序といった柵は無に帰し、狭い狭い生活圏は大海原のごとき広大さにもできるだろう。

 

人間は信じたいものを信じ、信じたくないものを信じない。

 

誤った情報も正しいと思えば、その人にとっては正しい情報となる。

 

正しい情報も誤りと思えば、その人にとっては誤った情報となる。

 

不幸の渦中にあれども幸福だと思えば、その人にとっては幸福となるのだ。

 

不幸を見つけるのは脳なのだから、幸福を見つけるのも脳なのだ。

 

己の不幸から目を背け、幻想でも幸福を見つけられたならば、己にとっては幸福な人生を送ることができるのだ。

 

己の幸福を呪い、あらゆるものを不幸と断ずるのも良いだろう。

 

だが、不幸も望めばそれはその人にとっては幸福となる。己の不幸が幸福ということなのだから。

 

ゆえに、私はそのような人生は存在できないと思う。世界は己の脳でソウゾウできるのだ。

 

私の戯言は、今ある人生に幸福を見つけられない人にとっては至言になることもあるだろう。

 

幻想に踊らされ続ける人生は、得も言われぬものに違いない。