企業は創業者の意思を核として形成されるものだという考えからいうと、現在存続している所謂大企業は、古い企業が多いゆえに、創業者の意思が最も希薄化した存在となってしまっている。
もちろん、創業者以後、後を継ぐ者たちの意思が働いて現在のその企業が稼働している。しかし、果たして、何代も続く企業というものが、強い意志を保持しうるのだろうか。日常の業務、さらには時々刻々と変わりゆく外部環境への対応に追われ、本来あるべき道筋から幾分なりとも逸れてきている企業も多々あるのではないだろうか。少なくとも大企業といわれる大所帯の組織において、強い方向性を皆が共有することは非常に困難だろう。またそうした企業に育てられれ、その組織を率いることになったリーダーが果たして大胆なかじ取りをし、その意思を組織全体に浸透させうるのだろうか。甚だ疑いの目を向けざる得ない。
とくに、業界再編が盛んな昨今、存在定義自体があいまい化している企業も多いのではないだろうか。
そんな下らない事を考えた今日であった。
株式会社は誰のためにあるという議論はよく耳にする話だ。
一つには、株主のため、株主価値を高めることがミッションといわれる。また一方で社員、経営者のためであるということもよく耳にする。もちろんともに正しいだろう。株主はリターンを求め自らの資本を投下するだろうし、社員、経営者は日々の生活の糧を得るため、その時間という資本を投下する。
しかし、株式会社を、一人の人間がこういうことを社会に提供したいという意思に協賛し、資本家がお金を出し合うという原始的な見方をすると、やはり会社というのは、社会へのインパクトじゃないかと思う。
創業者の社会に対しての意思と、投資家の意思、それがうまく結び付いてこそ、もっとも社会に対してインパクトを残すことが出来るのだと思う。
マネーゲームのような投資や、起業すること自体が目的とも言える起業が跋扈する現代にあって、こういうことは再度頭に刻んでおかないといけないんじゃないだろうか。