1.じいちゃんの眼差しに見た「田直し」の意味

 

小学校6年生の春休みだった。親父が長年温め続けていたに違いない、その行動を実行に移すことになった。当時家の前には、高低さが2030cmほどある2枚の細長い田んぼが並んであり、その脇には集落の衆で普請して作った小さな用水(小川)が流れていた。耕耘や稲刈りなど機械を使った作業はそんなに不都合は無かったが、1枚終わると畦から隣の田んぼに板を渡して耕耘機やバインダーを移動させ、作業を継続するという風であった。その田んぼを一枚にするという、手作業でやるには思い切りと覚悟のいる一大プロジェクトであった。

当時親父は専業農家に見切りをつけて勤めに出ていたので、もっぱら作業をするのは、亡き祖父の弟で、自分にとっては実の祖父のような存在だったじいちゃんと、春休みに入っていた若干12歳の私と、たったの二人だけ。一輪車一台にスコップ二丁、鍬一丁の道具だけで作業に取り掛かった。

まずは田んぼと田んぼの間の畦を壊し、それから高い方の田んぼの土を掘り起こしては一輪車に積み込み、低い方に運ぶ。目いっぱいに土を積んだ一輪車は安定が悪く、何度か立ち往生しながらの難儀な作業の繰り返しだった。3、4日くらいたった頃だったろうか。ようやく見た目で平らな状態になり、今度は水平器を使いながら、細かい凹凸をならす作業が始まった。これも高い部分から低い部分にせっせと土を運ぶ作業だった。その後、田んぼに二筋ほどの溝を片方の畦からもう一方の畦まで掘って、暗渠用に穴のいっぱい空いたビニールパイプを埋め込んだ。

土運びの作業からほぼ一週間後、約1反半ほどの田んぼが出来上がった。まだ本格的に構造改善事業の入っていなかった50戸ほどの集落の中では、大きな部類に入る田んぼに仕上がった。この1週間の作業報酬は1万円。当時の小学生には大きすぎるほどの金額だったが、当時各地で盛んに行われていた構造改善事業の負担に比べれば、スズメの涙どころか、スズメについばまれるウンカの涙にもならないほどの小さい金額だった。

今回、家産論が研修の課題に挙がり、配られた古い『農村文化活動』の雑誌を手にして、黄色く色あせた頁をパラパラとめくってみた時に、なぜか思い起こされたのがこの光景だった。1週間に及ぶ作業の最中、じいちゃんは何度も畦に腰を下ろしては、田んぼを眺めながらタバコの煙をくゆらせていた。普段はきりっとした眼差しで威厳を感じさせるじいちゃんであったが、その時はなぜかとっても柔らかな眼差しをしていたのを覚えている。

田んぼは農家にとっての一番の家産に違いなかった。だから、2枚の田んぼを1枚にして作業しやすくし、一畦分の植え付け面積を増やし、暗渠も敷設したその「田直し」は、田んぼの潜在的な力を高め、まさに家産を豊かにする行為そのものだった。普段余り見せることのることのない、あの柔らかな眼差しは、自分が生まれ育った家の家産を豊かにして引き継ぐことのできた行為への満足感だったのだろうか。いま振り返ってみるとそう思うのだ。

その後、集落に構造改善事業が入り、高い畦で囲われ、暗渠排水施設の整った2、3反区画の長方形の田んぼが集落を取り囲む海のように広がり、その中をコンクリートのU字溝が網の目のように張り巡らされた。言うまでもなく手間をかけて広げた田んぼも、その脇の小さな用水(小川)も、あっさりとそれに飲み込まれてしまった。この大規模な「田直し」の事業と歩調を合わせるように、年毎に強まる減反政策のなかで集落からは専業農家の姿が消え、一軒一軒の農家には償還金の負担が数十万、百万単位で置き土産のように残された。(それと、うちの集落でホタルの姿が見られなくなったのも、畦に大豆を植えるようなことが全くなくなったのも、ちょうどこの頃からだったろうか…。)

 

2.家産を守り、豊かにする村の自立

 

そして、2004年の暮れ。時あたかも市町村合併の嵐が吹き荒れ、コツコツと耕されてきた小さな田んぼが一気に地ならしされ大きな田んぼに生まれ変わったのと同じように、かなり強引な地ならしによって新しい自治体が雨後の筍のように全国に生まれている。今まで国に騙されて補助金をつかまされ、村が豊かになる仕事をやったように思い込まされてきた自治体は、今度は少しばかり地方の方に向けて差し出された国のもう一方の手のひらの上に乗せられて、「一般財源化された交付金」という新たなお金をつかんでは糠喜びしている、そんな風刺画さえ見えてくる気がする。錯覚だろうか。

こうした自治体が多い一方で、高橋村長が率いる長野県栄村は合併せずに、小さな村として自立を目指す自治体の先頭を走っている。この村は、一貫して地域が自立して行く際に障害にさえなりかねない、一事業一目的の補助金に頼ることなく、本当に村のためになる、村の家産を豊かにするような事業を、村のサイズにあった規模と基準によってコツコツと進めている。しかも、田直しにしても、道作りにしても村の職員を動員して、地域の人たちと共に行う体制をとっている。

地方にとっては、一家の家産はその家のものでありながら、他の家の家産と相互に繋がり合い、村や集落全体の共有する家産に連なっている。特に中山間地においては一軒の家の農地が耕作放棄され荒れることは、地域の農地や人々の暮らし、心持ちにも微妙な影響を与える。連鎖反応も起こしかねない。たとえば集落営農にみるように、一軒の農家の家産も切り捨てることなく、集落全体で守るべく地域の力を紡ぎなおしていかないと、一家の家産も集落や村の共有の家産も、守っていくことはなかなか難しい。しかも現在、その状況を背後から煽るような農水省の「食料・農業・農村基本計画の見直し」作業も進んでいる。担い手を絞り込んで認定農家に限定し、予算の使い道もそこに集中させていくような時代錯誤な方向が…。農業を生業でなく、産業として他の産業並みに競争させようとの論理なのだ。しかも、平場とは条件が異なる(でも、必ずしも不利ではないが…)中山間地域の農業や地域社会の自立にそれなりの成果を挙げてきた直接支払いの制度まで取りやめようとしている。こうした施策の中で実際に村の農業や農村を支えてきた女性や高齢者などの担い手層は、残念ながら施策の射程の中から切り捨てられていくだろう。

 

3.家産論が発信し続ける「ぶれない視点」の堅持を!

 

今回再び学んだ家産論は、当時村の人々が60年代の高度成長に踊らされ、資本の論理にからめとられていった実態を緻密に分析し、その桎梏から逃れる方策を大胆に指し示している。今こうしてみると、当時の情勢に見合って組み立てた理論でありながら、その深いところをしっかりと見据えているため、いま目の前に起こっている諸現象をとらえていく際にも、きわめて重要な視点や課題を克服して行くための手立てまで提供してくれていると思う。特に現在、自治体組織や農業の施策が右往左往する中で、これから地域が寄って立つべき考え方やその歩むべき道も見えてくる。

中山間地域が、また農村が、ライフスタイルの点でも、働き方の点でも、それに豊かな生物資源や文化の点でも「21世紀の先進空間」であることを、農文協は強く主張している。まずはこの一般的には「不利な」条件を抱えると思われている中山間地域で、しかもその中で実質的に地域と地域の農林業を支える元気のいい女性層や高齢者層を励ましていく。そして、この人たちの自然観や生活感覚、知恵や技に依拠しながら、資本の論理にがんじがらめにされた人々の意識や生活、農業や産業のあり方を見直して行く。その際に、都会から知識や技術を持ってⅠ・U・Oターンで新規に移り住んで来たり、訪ねて来たりする人たちも巻き込みながら、足元にある「何でもないようなもの」や、高齢者など地域に根差して生きてきた人たちが自然と身に付けているような考え方や認識みたいなものまでも、「家産」という視点から見直し、地域という「場」で紡ぎ直してみる作業が必要なのだろう。