村を育てる学力 (教育選書 14)
東井 義雄 (著)
明治図書 (1957/05)

■自然のささやきを感じられる教育の凄さ


 「さら さるる ぴる ぽる どぶる ぽん ぽちゃん 川はいろいろなことをしゃべりしながら 流れていく なんだか 音が流れているようだ・・・」(『村を育てる学力』65頁)

 貧乏村の中を流れる川の流れに、このような豊かなささやきを発見した5年生の保田くん。この詩を読んだとき、その豊かな感性と表現力に非常な驚きを持つとともに、宮本常一氏のある話を思い出した。大阪で教員をやっていた頃に、子どもたちによく語っていたという、次のような内容の話だ。

  「子どもの頃は思いっきり自然の中で遊んで、美しい思い出をたくさん作っておくことが大切なのだよ。大人になって郷里を離れて、苦しかったり、辛かったりしたことがあったときに、ふと故郷の山や川で遊んでいた頃の美しい風景が思い起こされると、随分と心が慰められ、励まされるものなのだから」

 おそらくこの話は将来村を離れるに違いない子どもたちに向けて話されたことなのだろうが、遊びを通じて村の自然とかかわり、その懐でさまざまな体験をすることによって身につく「生きる力」の偉大さを語っている話だと思う。村の自然に抱かれて遊び回ることで、知らず知らずに自然の中で体験した一つ一つのことが、美しい記憶として身体に蓄積されて行き、生涯にわたり元気を与えて続けてくれる。だから子どもの頃に村の山や川、田畑を駆け巡り思いっきり遊んでおくことが何より大切なのだよ、と宮本氏は語っているのであろう。

 村の自然の中で遊ぶという体験にとどまらず、そのなかで感じたこと、考えたことを「綴る」ことで表現し、深めていくことを重視する、東井義雄氏の緻密な教育論とは比べようのない荒っぽい教育論なのだが、この宮本氏の想いの根底にも「村という場が持つ教育力」に寄せる信頼感みたいなものがある気がする。ただし、東井氏の場合には、村には「村という場が持つ教育力」が潜在的に備わっていながらも、封建性や貧しさにより、それが大きくスポイルされていると見ており、その状況をいかに子どもたちが認識し、主体的に克服していくのか、ということに生涯にわたり執念を燃やし続けて取り組んできたのだと思う。

 その成果の一つが、何の変哲もない村の自然の中に喜びや驚きを感じられる豊かな感性によって表現された、先の詩になるのである。東井氏さえ思いも寄らなかったと書いているが、「村を育てる学力」を養うことによって、芸術的(芸能的)な学力までも子どもたちの中に育って行き、職業作家や職業芸術家にも比類するような表現を生み出すことになったというのだ。このような豊かな感性は、きっと村の大人たちの心をも揺り動かし、足元の自然のすばらしさに気づかせてくれ、わが村をさらに愛し、さらにより良い環境にしていこうとする運動にもつながってくことだろう。先の詩にとどまらず、他の詩を見てもその表現力や感性には驚くばかりで、こうした豊かな感性をも磨くことになる「村を育てる学力」の凄さを思い知った。


■現代における「生活の論理」に根ざした学習とは

 東井氏が今回のテキストの中で語っていた「村を育てる学力」を、今日の新たな視点で読み直してみると、村の封建性や貧乏からの脱却という時代状況を超えて、教育の本質に迫る普遍性を感じる。彼は教育を子どもの「主体性」や「生きがい」、「生まれがい」を育てていくものとして位置づけ、教科書的な順序で教えていく「教科の論理」ではなく、子どもたちの生活体験や生活実感に根ざした「生活の論理」に寄り添いながらすすめる学習行為として捉えた。それは次のような文章によく現れているが、これを見ると今日の「総合的な学習の時間」に向けて発せられた学習論としても十分通用すると思う。

 「ものしりをつくり上げる教育体系ではなしに、身のまわりの事物を、算数は算数の立場で、はてな?と不思議がり、こうかもしれないぞと考え、こうしてみたらどうか、と、実際にやってみ、なるほどとうなずき、でもいつでもどこでもそうなるか、とためしてみるような行き方を、もっとだいじにしなければならないし、・・・」(『村を育てる学力』60頁)

 このような課題解決型の教育の成果は、たとえば澄ちゃんの雑草の学習に結実してくるのだが、彼女の問題意識の鋭さと、とことん課題を追及しようとする姿勢には本当に感心させられた。おそらく澄ちゃんをこうした課題に突き動かした動機には、貧しい百姓家に生まれ育ち、日々つらい畑の雑草取りに汗する両親の姿を見てきて、どうにか両親を助けてあげたいという強い「想い」=「愛」があったことだろう。

 「生活の論理」ということを考えると、澄ちゃんのような「生活の貧しさからの脱却」や「豊かな生活へのあこがれ」といった生活上の強い動機は、物質的に恵まれ、日々の労働の場を持たない現代の子どもたちには生まれようがないのかもしれない。しかし、現代の子どもたちにも当然ながら生活する場が存在することを考えると、その現場からどのような視点で「生活の論理」を見つけ、それを子どもたちにどのように意識づけ、学習活動と結び付けていくのかということが現代の教育の課題となるだろう。

 そのときに、子どもの毎日の営みであり、生きることの意味や生命を感じ取ることの出来る「食」という視点と、子どもが日々暮らす場であり、人や自然との関係を取り結ぶ場である「地域」という視点が、農村であれ、都会であれ、重要になってくるにちがいない。今日の食農教育の優れた実践を見てみても、やはりこの二つの視点がしっかりと位置づいていると思う。こうした今日の優れた実践を、もう一度、東井氏が「村を育てる学力」として提起する、地域や生活の場と子どもたちを結び付ける教育の視点から、読み解いてみる必要がありそうだ。