こんにちは。副委員長のサルタと申します。旧高高一です。
皆さんは、開成保守大連合(以下保守連合と略す) が従来の「質実剛健」に代わる運動会の理論的根拠として、社会権を挙げていたのを覚えていますか?
曰く、「運動会の前には、全ての開成生は団体となり、かつ平等である」云々。
しかしながら、運動会は本当に社会権的行事として機能するのでしょうか?
今日はこの点を追究しようかと考えます。
まず、その場限りの勝敗の再分配が行われる、という主張がありますが、これは少なくとも高三には当てはまらないでしょう。
何十年たっても同窓会のたびに高三運動会やその勝敗が話題になると言います。
また、暴走事件の代のOBは事件から30年後の同窓会で中断された種目を再開してまで勝敗を付けたという話です。
このように勝敗はその場限りではなく、後まで引きずられるものであります。
その点では受験や恋愛、甲子園などと変わりません。
また、運動会は日常の強者も弱者もなくする、と言いますが、学力的な落ち零れで運動もできない(が(大抵は)ゲームなど何かそれとは別の得意分野がある)ような開成生は、いよいよ俗世的序列における弱者であることを痛感させられます。
弱者救済が一つの目標であるかのように振る舞う運動会は、陰で更に救いようもない「超弱者」を作り出しているのです。
序列を頭脳と運動の二本にすることで、二本ともからドロップアウトした最弱者に救いようもない滅多打ちをかける行事、それが運動会です。
一本だけならば「基準が悪い」ともいえましょう。しかし、更に別の基準でも弱者・敗者になった者にはそう弁解する権利さえない…そこまで人を追い詰めるのが運動会です。
(尚、運動が苦手な人にも要領などの救済がある、というのは大嘘です。要領も含めたどの競技においても、運動のできない下級生は上級生から冷遇されているのが現実です)
つまり、運動会は格差拡大に働いているのです。
そのどこが社会権的行事なのでしょうか?
運動会はペン剣・質実剛健を侵害するのみならず、自由権的なこれらに対抗する社会権としても機能していないどころかマイナスに働いています。
そのような運動会は有害な行事です。開成に残しておくわけにはいきません。
運動会はなくなることで初めて開成に貢献できるでしょう。