折口信夫/講談社
¥3,996
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本年最初の挑戦である大著を奇跡的に一読することができたので、僭越ながら簡単にまとめを残そうと思います。ちなみに(わかりにくいのですが、)折口信夫がタイトルで、安藤礼二さんは著者です。
明治初期の日本古代学者である折口信夫を、文芸評論家の安藤礼二さんが批評した一冊。こちらは現在私が参加させていただいているHCU(Hyper Corporate University)での年末年始の課題図書なのですが、いわゆる日本神道を通じて日本、ひいては自分を知ろうという試みです。
※HCUについても、おいおい書かせていただきますが、以下をご参考までに↓
社内HCU~神と仏のAIDA 聖と俗のAIDA~
--
・本著の学術的価値
日本古代学者である折口信夫は、日本とは何かを紐解く上で外せない存在ではあるが、そのあまりに広い学問領域に加えて「顕示と隠蔽の構造(隠蔽することによって顕示し、顕示することによって隠蔽する)」を有していたため、これまではどうしても民俗学者である柳田國男との関係から論じられることが多かった。しかしその折口の全体像をはじめて体系的に表現することに成功したのが安藤礼二。
・折口信夫の古代学の基本構造
国家神道として日本神道が祭り上げられる以前、日本列島の原初の神は人の外部に存在する「霊魂」「言霊」そのものであった。その神を、祝祭(いわゆるお祭り)の中で受肉(人の中に受け入れる)ことで原初の「法=権力の体制」と原初の「詩=表現の体制」が産み落とされた。この「法の内部」で権力を体現する者こそが「天皇」であり、「法の外部」で表現を体現する者こそが「乞食=放浪する芸能の民」であった。折口にとって権力と表現は表裏一体の関係にあったということだ。これら、神と天皇と乞食の関係を解き明かすのが、折口信夫の古代学の核心に存在するものである。
・感想
本著を通じて(正直、難しくて理解できているかどうかもわからないのですが。。)、折口信夫の世界に入っていくのと並行して、自分自身の価値観の根本(自分は何を信じているか)が解かれていくような感覚になりました。また日本語の解体と同時に民族の境界(日本、朝鮮半島、大陸)を破壊してしまう論理展開、キリスト教と仏教と神道をリフレクティブに見ながら神道の独自性を炙りだす手法、それらと柳田國男の民俗学からの学びを一体化させて、神道の基本構造を発見する過程は圧巻の一言です。古事記・日本書紀・死者の書(折口信夫著)とあわせてオススメの一冊です!
特に印象深かった箇所のみ抜粋したいと思います。
今月中旬、出雲大社でHCUの合宿をしてきますが、ゲストに安藤礼二さんがいらっしゃいます。スサノヲを祀る出雲大社でご本人から直接講義を受ける中で、自身にどんな変化が起きるのか、今から楽しみでなりません。
日本人の宗教観や価値観などについて、是非みなさまのご意見をお聞かせください。
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本年最初の挑戦である大著を奇跡的に一読することができたので、僭越ながら簡単にまとめを残そうと思います。ちなみに(わかりにくいのですが、)折口信夫がタイトルで、安藤礼二さんは著者です。
明治初期の日本古代学者である折口信夫を、文芸評論家の安藤礼二さんが批評した一冊。こちらは現在私が参加させていただいているHCU(Hyper Corporate University)での年末年始の課題図書なのですが、いわゆる日本神道を通じて日本、ひいては自分を知ろうという試みです。
※HCUについても、おいおい書かせていただきますが、以下をご参考までに↓
社内HCU~神と仏のAIDA 聖と俗のAIDA~
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・本著の学術的価値
日本古代学者である折口信夫は、日本とは何かを紐解く上で外せない存在ではあるが、そのあまりに広い学問領域に加えて「顕示と隠蔽の構造(隠蔽することによって顕示し、顕示することによって隠蔽する)」を有していたため、これまではどうしても民俗学者である柳田國男との関係から論じられることが多かった。しかしその折口の全体像をはじめて体系的に表現することに成功したのが安藤礼二。
・折口信夫の古代学の基本構造
国家神道として日本神道が祭り上げられる以前、日本列島の原初の神は人の外部に存在する「霊魂」「言霊」そのものであった。その神を、祝祭(いわゆるお祭り)の中で受肉(人の中に受け入れる)ことで原初の「法=権力の体制」と原初の「詩=表現の体制」が産み落とされた。この「法の内部」で権力を体現する者こそが「天皇」であり、「法の外部」で表現を体現する者こそが「乞食=放浪する芸能の民」であった。折口にとって権力と表現は表裏一体の関係にあったということだ。これら、神と天皇と乞食の関係を解き明かすのが、折口信夫の古代学の核心に存在するものである。
・感想
本著を通じて(正直、難しくて理解できているかどうかもわからないのですが。。)、折口信夫の世界に入っていくのと並行して、自分自身の価値観の根本(自分は何を信じているか)が解かれていくような感覚になりました。また日本語の解体と同時に民族の境界(日本、朝鮮半島、大陸)を破壊してしまう論理展開、キリスト教と仏教と神道をリフレクティブに見ながら神道の独自性を炙りだす手法、それらと柳田國男の民俗学からの学びを一体化させて、神道の基本構造を発見する過程は圧巻の一言です。古事記・日本書紀・死者の書(折口信夫著)とあわせてオススメの一冊です!
特に印象深かった箇所のみ抜粋したいと思います。
スサノヲとアマテラスのウケヒ(誓約)を主題とし、スサノヲとアマテラスの間に生まれる情愛と憎悪。 ~中略~ 折口は「ウケヒ」の不自然さに焦点を絞り、「ウケヒ」のもつもう一つの可能性、つまりアマテラスではなくスサノヲが天皇の祖となった可能性を「ウケヒ」が孕んでいることを言外に示唆しているようだ。 ~中略~ アマテラスは伊勢に祀られ、スサノヲとその子孫オホクニヌシは出雲に祀られている。伊勢から日は昇り、出雲に日は没する。 ~中略~ 出雲と伊勢の対立は、近代に入りより激化する。伊勢は「国家神道」の中核に位置づけられ、出雲は「国家神道」の枠から離れた「教派神道」となる。 ~中略~ この列島に生を享けた人間にとって最も危険であり、しかしながら最も可能性にも満ちている問いがそこに存在している。「国家神道」を解体した後、神道は本当に宗教になることができるのか否か。折口学とは、列島の固有信仰たる神道、その究極的な問いに肉薄した一つのアプローチだった。折口信夫は問いを未来にひらき、そこで力尽きた。戦後の折口が「神道を宗教化する」という主題のもとに試みた宗教改革運動はいまだ完結していない。 ~中略~ 弟スサノヲと姉アマテラスの「恋」、「ウケヒ」の問題を起点として。
神道の愛は、キリスト教的な「差別」の愛と仏教的な「平等」の愛を総合するものだった。~中略~折口はスサノヲの暴力とアマテラスの愛欲をともに認めてくれる新たな神道の倫理を創りあげようとしていた。そこでは自然そのものが生ける神だった。 ~中略~ その折口の真意はこうだ。自己と完全に異なる存在を神としたとき、すなわち絶対他力の信仰のみで、果たして本当の救いは訪れるのか。問題は愛に絞られる。神道は穢れを祓う。仏教は償えば赦す。仏教には、神道のように穢れを祓い除けるという暴力的な思想はない。「祓いのけることはしないで、穢れたままで救うということ、これを私は愛と言い慈悲と言うのです。」~中略~荒ぶる神スサノヲの暴力から愛を獲得したオホクニヌシが、二柱の神によって、暴力と苦しみ、愛と悦びは一つのものになる。そこに神道の「愛」が存在する。
神道に教義の体系があるとは思えない。神道はいまだ「宗教」ではない。神道が宗教になるためには、教義を統一する者が現れるか、これまでの教義を破壊してしまうか、つまり今までの神道を滅ぶすしかないのではないか。そこにはじめて真の「日本的神教」のようなものが成立するのではないのか、と。折口信夫の晩年は、この問いに自分なりの答えを出すことに費やされていった。
今月中旬、出雲大社でHCUの合宿をしてきますが、ゲストに安藤礼二さんがいらっしゃいます。スサノヲを祀る出雲大社でご本人から直接講義を受ける中で、自身にどんな変化が起きるのか、今から楽しみでなりません。
日本人の宗教観や価値観などについて、是非みなさまのご意見をお聞かせください。