【広尾・高輪】冒険できるこども園 広尾・高輪シュタイナーこども園 代表赤川幸子公式ブログ

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「食べ物」「遊び」「環境」この3つをしっかり与えて育てることで、こどもは自ら学び始めるようになるのです。乳幼児期に本当にすべきことをする。それだけで、将来大人になるのが楽しみなお子さんに育ちます。

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● 代表赤川幸子のプロフィール  

自ら学ぶ子どもを育む園長先生です。  

私のことをぜひ皆さんに知っていただきたくて、

少し長めのプロフィールを書きました。

よろしければぜひ、読んでいただけたらうれしいです。

 

1.幼少期

 

1961年(昭和36年)9月6日生まれ、京都に生まれました。

 
家族は父、母、本人(長女)、弟(4歳下)の4人家族でしたが、中学1年生の秋に父が他界しています。

 

京都といっても、伏見区の庶民的な田舎地域に生まれ育ち、のんびり自由なこども時代をすごしてきました。

 
町内の老若男女みなが顔見知りで、親戚のような関係でした。

 
空き地や田んぼも多く、
こどもたちはこどもだけでそんなあたりで好きなことをしてあそび尽くすことができました。

 

 
家に鍵など掛けない習慣。

 
出かけるときはお隣に声をかけるだけ。

 
雨が降り出したら洗濯物をいれておいてあげる。

 
そんな近所づきあいの地域であり時代でした。

 

近所に同年齢のこどもが数名おり、幼稚園にいかなくても友達と遊べていたので、幼稚園は年長児の1年保育のみが主流(私もそう)でした。

 

近所の友達のお父さんがトラックの運転手で、トラックの荷台に大きなシートをかぶせて水を張り、「プール」として遊ばせてもらったり、たらいに水を入れて水浴びをしたり・・・。

 


 小さい頃の私は、親の話によると、かなりぼんやりしたこどもだったらしいです(汗)。

 

母は6人兄弟の長女なので、私が母方の親戚のなかで1番目の姪であり、祖母や叔父叔母たちからずいぶん可愛がってもらえました。

 

 

 

2.小学校

 
小学校1年生のとき、担任の先生が

「幸子ちゃんは寝てるのか起きてるのかわからないほど、いつも夢の中にいるよう・・」(=ぼーっとしている)

と母に話していたことを覚えています。

 

親からも(特に母から)、
「ほんまにあんたはぼーっとしてるなあ・・」
とよく言われていました。

 

学校でいやなことがあっても、家に帰るとすっかりリセットできるから、
朝から機嫌が悪かったり気が重かったりしたことはありませんでした。

 
母は、家に帰ると簡単なおやつを出してくれて、
わたしがそれを食べて学校での出来事をひとしきり話す。
それを聞くことだけは、母は毎日心がけてくれていたのだと、今振り返ると思います。

 
話したいだけを聞いてくれて、話したくないことを、根掘り葉掘り聞いてくることはしない母でした。

 

母の口癖は
「人は人、自分は自分」、「勉強は学校でするもの。」

 

家でわからないと言っても、

「私たち(父母)にはわからんから、学校の先生に聞いておいで。

塾なんか行く必要なし」

と、かなりきっぱりしたものでした。

 

そのおかげで、勉強を強制される辛さはまったく味わわずに済みました。

 

父は、わたしにはいつも優しくていつもにこにこでした。

(母にはよく文句を言われていたけれど・・)

 
でも、小学校高学年の頃は自営の工場で作業服と軽トラの父よりも、サラリーマンでネクタイを締めるお父さんがかっこよく思え、友達がうらやましかったんですね。

 

まるで「オールウェイズ3丁目の夕日」の世界です。本当に。

 

ともかく、毎日夕方まで遊びまわり、どろんこになって好きなことをし尽くせたのは幸せなことでした。

 
今の私の中にある原風景は小学校の頃の風景かも・・と思います。

 

 

 

3.中学校

 
区立中学校に進学し、ソフトテニス部に入りました。

 
先輩が厳しく、とても封建的な部活動で理不尽なしごきも体験。

 
でも3年間続けました。

 

「不良」と言われる類のクラスメートとも仲良くしていたし(自分は真面目派だったけれど)、地味なタイプの友人とも楽しくすごせるようなタイプでした。

 
でも「不良」タイプの友人たちが悪いこと? を企てるときは、
私には声をかけてこなかったなあ・・。

 

中学1年生の秋に、父が他界したことが大きな出来事かもしれません。

 
朝、起こそうとしたら布団に寝た状態のままで息をしていませんでした。

 
心筋梗塞だったらしいです。

 

でも、もしかしたら今でもそうかもしれないと思うけれど、父が「死んだ」という実感が全くないまま過ごしてきました。

 
弟はとてもショックを受けていたが、わたしは「もうすぐ帰ってくる」的な感覚でした。

 

父がいなくて寂しく思ったり、嫌な思いをしたり、つらかったことは1回もありません。

 

 

 

4.高校生

 

 
第一志望の公立高校に進学しました。

 
硬式テニス部に入り、3年間所属します。

 

テニス部にあこがれの男子の先輩がいて、その先輩を大っぴらに追いかけまわして片思いを楽しんでいましたね。

 
高校1年生あたりで大人に対抗心というか、反抗心が芽生え(かなり遅い・・)、担任の男の先生にもよくつっかかっていました(汗)。

 
といっても、見た目は正統派の女子高生だった(と思います)。

 

3年生になって進路を考えるとき、父もいないし、母は自宅で洋服の仕立てをして生計を立てているというほそぼそとした家庭だったこともあり、就職を考えました。

 
実は銀行の窓口のお姉さんが、電卓を超早く叩く光景にあこがれを持っていたので、銀行に就職しようかと・・。

 

そんなことを思いめぐらしているとき、テニス部顧問の先生が、私の知らない間に家庭訪問をして母に大学進学をさせてやってほしいと話したらしいのです。

 

母は私立大学4年間はちょっと無理だけど短大ならいいよと言ってきたので、就職への思いは一旦打ち止めにして進学を決めました。

 

特にやりたいことや夢があるわけではなかったので、聞こえのいい「英文科」を選んだという安易さ。

 

 

 

5.大学生

 
大阪の短期大学の英文学科に進学しました。

 
もう絶対テニス部には入らない!と決めていたのに、1年の6月に硬式テニス部に入部。

 
テニスが強い学校だったらしく、上手な先輩がいっぱいいて驚きました。

 
あっという間に、私のシンプルな脳みそを見抜かれ、仲間に溶け込み楽しく過ごします。

 

2年の夏にテレビで取り上げられていたのがきっかけで、CAを目指すことにした私。

 
皆から「無理に決まってるやん」と言われたが、その競争率や試験内容等全く知らなかったことが幸いし、無心で目指すことができました。

 

目指そうと思ったものの、飛行機に乗った経験がなかったので、試験前に急きょ大阪から東京までの片道だけ飛行機に乗りました。(帰りは新幹線)

 

第一志望の航空会社1社だけを受験し、奇跡的に合格するのです!!!

 
当時は4~5次試験くらいあったと思うが、すべて電報で結果通知が来るので、ドキドキでした。

 
最終の通知を受け取ったときはさすがに大泣き。

 
家族の協力に心から素直に感謝しました。

 

 

 

6.社会人になってから

 

 
どうしてCAを目指そうと思ったか・・いろいろな思いがありましたが、突き詰めると、
自分を変えたかった
というのが一番だったように思います。

 

実家にいるとどうも母の影響から逃れられない、と。

母は何も自分に指示するわけでもないし、何でも自由にさせてくれていましたが、自分自身の中にいる母が大きかったような、そんな感じでした。

 

小さい頃から母に「この子は不愛想でねえ」と言われていたことが結構強く自分の中に影響を及ぼしていて、ずっと大人に対して愛想よく受け答えすることができずにいる自分がもどかしかったのです。

 

 

家を出て身も心もフリーになったら、きっと生まれ変われる、そんな希望を抱いての選択だったと思います。

 

結果、母から自立することができ、ようやく本当の自分が生まれた気がします。

 

就職して20代は思う存分、自分のやりたいことをたっぷりしてきました。

 
何にも思い残すことがないほどに。

 

28歳で転職し、その後は結婚や出産、子育てと人生が展開していきましたが、自分にとってはさほど大きな出来事という訳でもない感触な気がします。

 

ただ、結婚や子育ては自分の意識の中にかけらも入ってなかったので、何か大きな力で動かされているような気になることもありますが、夢見て結婚や子育てに進んだわけではないことがまた幸いだったとも思います。

 
「こんなはずじゃなかった・・」と思わずにすんだのですから。

 

それどころか、子育てしながら仕事をし、保育の送迎で苦労してきた経験がそのまま今の仕事に役立っていますから人生ってすごいと思います。

 
ここまで人生を振り返ってきて、あらためて、自分は「まず行動」してから検証するタイプだとつくづく思います。

考えることが先だとつい二の足を踏みそうだと思うことも、
「考えるよりやった方が早い」
という感覚で、気づくともう動いているわけです。。笑

 

 

 

7.家庭・こどもについての思い

 

 

私自身は結婚や家庭やこどもを夢見ていたタイプではなかったので、現実とのギャップに悩むことはなく現在に至っています。

 

結婚しても出産しても、一貫して「自分」を保つために仕事を続けてきました。

 
仕事は、数多く転職を重ねましたし、「これ一筋!」というものではなかったですが、働くことを続けることへの執着は強かったです。

 
それは、家庭の経済のためという以上に、「自分である時間」を持ち続けるため・・という感じでした。

 

子育て中にフルタイムで働くのはとても忙しく、こどもが熱を出したら夫と交代で休みを取るなど大変なことの連続です。

 
でも働くことをやめようと思ったことは一度もありませんでした。  
今もそうです。

 

現在はこどもたちが巣立ち、家族それぞれが自分の人生を歩んでいる実感があります。

 
夫と二人の生活に戻ったものの、それぞれ自分の仕事に全時間を使っていて、余暇などほとんどないに等しいこの頃ですが、互いにやりたいことを今やっているとすごく思います。

 

私にとっての家庭は、家族のプラットフォームという感覚です。

 

それぞれが元気でやりたいことを存分にやれれば何より幸せだし、疲れたり体調を崩したりしたときは家で休む。そんな感じです。

 

子ども達には、幼いころから、「仕事をするようになったら一人暮らしをすること」と、「海外にもどんどん出て行って、広い世界をみたほうがいい」ということをいつも話していました。

 

その刷り込み?のおかげで、長女は一人暮らしをしながらお金を貯めて今年の夏からオーストラリア留学をするとのことです。


長男はまだ学生なので同居ですが、自分で決めて今年の1月から8月までカナダに留学しています。

 

こどもは親の背を見て育つというのは本当だとつくづく思います。

 

自分が育ったように子どもを育てようと思ってきたことは間違ってなかったんだなと思います。

 
自分の子ども時代は、どんな子にも体験させてあげたいといえるほど、あたたかい原風景として私の中に色濃く存在しています。

 

うちの子どもたちは中学までは公立ですごし、受験は高校を受ける段階からでしたが、それがよかったと思います。

 
幼稚園や小学校時代は親主導で受験をしますが、中学生になると、自分の行たい学校を自分で選ぶことができるし、そのために勉強しようと考えるようになりますから。

 
それが自然だと思うのです。

 

なんでも早め早めにすましておくと後が楽というのは、人生にはあてはまらないんですよね。

 
そんなことを実感するこの頃です。

 

 

8.広尾・高輪シュタイナーこども園を始めるきっかけ、思い、実現したい未来、つくりたい理想の社会

 

子育て中に知ったシュタイナー教育ですが、横浜のシュタイナー幼稚園で実習生~職員として3年ほど働くうちに、こういう内容は東京のこどもたちにこそ必要だと強く思いました。

 

しかも、長時間保育を必要とする子供にこそすごさせてあげたい環境だと思いました。

 

そこで、横浜の園をやめて2008年に東京の高輪で開園したといういきさつです。

 

人工物にあふれた日常、忙しい大人、デジタルの音声が店や電車や街角からざわざわいつも聞こえている環境、  
それに加えて、都心部では受験熱が幼稚園児にも及んでいるという事実があります。

 

こどもたちはいつ心から笑いながら遊ぶのでしょう?

 
いつもいつも大人の監視下におかれているこどもは、いったいどんな大人になるのでしょう?

 
空き地もなく田んぼもないこの都会で、こどもたちはどうやって冒険心をもつのでしょう?

 

そんなことを考え始めるときりがないくらい、こどもたちのことが不憫に思えてなりません。

 

せめて自分にできることはやってみよう、と思いました。

 
子どもに、本当の子ども時代をすごさせてあげたい。

 

その一心で、この園を運営しています。

 

この園の卒園児たちが、日本の未来を力強く引っ張っていってくれたらどんなに嬉しいでしょう。

 

社会からすると吹けば飛ぶような存在ですが、

こどもたちの大事な時間が、大人によって壊されることなく、

存分に泣いて笑って怒って転んで立ち上がって・・

そんな経験を味わわせてあげたい、と願う仲間を増やしていきたいと思っています。

 

泥んこになってさんざんあそんだ子供時代をもつ大人は、どんな分野でもいい仕事をすると私は思っています。

 
そんな大人で溢れる日本にしたいですよね。

 
日本を元気にしていくはじめの一歩を作る仕事だと自負しています。