4-1.対立の構造のその後(中央の動き) | 中国について調べたことを書いています

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1.中国広東省の深セン経済特区の成立過程
2.香港・六七暴動
3.農業生産責任制と一人っ子政策
4.浦東新区から雄安新区へ
5.尖閣問題の解決策を探る
6,台湾は国家か

(1)華国鋒と鄧小平
(2)ふたつの全てか、真理標準か
(3)文化大革命の継続か、終了か
(4)行政組織をめぐる対立(人民政府と党か、革命委員会か)
(5)経済政策をめぐる対立(自力更生か、対外開放か)
(6)農業政策をめぐる対立(集団農業か、生産責任制か)

(1)の華国鋒と鄧小平の権力争いだが、役職上は華国鋒は依然として党、国務院、軍のトップの地位にいたが、実際には鄧小平が権力を握っていた。1979年2月17日から3月16日にかけて、中越戦争があった。大きな被害をだしながら、結局は撤退することとなったが、これは華国鋒の責任となり、さらに華国鋒の立場は悪くなっていた。すぐにでも鄧小平は華国鋒を追い落とせたのではないかとも思われる。なぜ鄧小平は華国鋒をさっさと追い落とさなかったのか。政治上の混乱を避けるためだろうか。

(2)の真理標準論争だが、1979年1月18日から4月3日まで行われた理論工作務虚会で、決着がつけられ、「ふたつの全て」は理論的にも完全に否定された。この論争がこんなにも長い会議を必要としたのは、「真理標準」論を肯定し、「ふたつの全て」を否定することは、「ふたつの全て」を主張しているリーダーの評価に関わってくるからである。また、それはこれまでの階級闘争を鋼とする路線から経済発展重視を目指す路線へ変更することをも、理論的に位置づける必要があったのである。

(3)の文化大革命も終了はしていたが、「ふたつの全て」が否定されたことで、文化大革命に関わった人々の評価の問題が残されていた。つまり、この時点では、華国鋒はもちろん、彼を支持する汪東興や紀登奎、呉徳、陳錫聯といった文革支持派が中央政治局委員として残っていた。彼らに評価を下し、それに応じた処置をしなければならない。また、林彪と四人組の裁判も残っていた。
一方、文化大革命の期間中に失脚された劉少奇をはじめとする人々の名誉回復も必要だった。ちなみに、香港招商局の袁庚の名誉回復は1979年2月(袁庚伝p59-66)、広東省の習仲勲の名誉回復は1980年2月(主政p13)におこなわれている。

(4)の革命委員会については、この名称が名目化していたことは述べたが、1979年6月18日から7月1日に開かれた第5次全国人大第2会議で、革命委員会は各級の人民政府に改組してゆくことが決まった。広東省の革命委員会が1979年12月に人民政府に改組されたことは既に述べた。

(5)の経済政策については、対外開放の方向へ突き進んでいるのは言うまでもない。

(6)の農業の問題については、生産責任制は全国的に広まり、各地で効果を上げていた。しかし、家庭レベルの生産責任制はまだ認められていない。

最後に経済に関しては、経済発展のスピードの問題で生まれた新たな火種は、陳雲の批判が鄧小平の急進的な開放政策にも向けられていくことになった。しかし、この1979年末の段階では、まだ激しい対立といったほどでもなかったようである。
これについては、後述する。