駆けながら、万智子はくすくす笑い出した。
悠がようやく足を止めた。
万智子は胸を押さえて笑っていたが、しまいに涙が出てきた。
「ああ、やだ。完璧な失恋ね」
万智子は袂を口に押し当てた。衝撃は受けたが、胸は痛まなかったと思ったのに、涙があとからあとから出てきて止まらなくなってしまった。
悠の手が動いた。両手が回され、引き寄せられる。自分が悠の懐にすっぽりと納まってしまったことに仰天して、万智子は涙が引っ込んだ。胸がどきどきしていた。さっき泣いたときよりも鼓動が早い気がする。
万智子は慌てて身を起こした。悠の手はさらりと離れた。
「ごめんなさい、もうだいじょうぶだから」
悠は何も云わない。ただ、万智子の隣にいた。
唐突に悠は頭を下げた。
「謝る。あんなことになるとは思わなかったんだ。黙ってて悪かった」
悠は例の女性のことを知っていたと云った。だが、万智子は起こる気にはなれなかった。知っていて黙っていたことやぎりぎりで駆けつけてくれたことは悠のやさしさだと思う。それよりも万智子は殊勝になっている悠が珍しく、ちょっと意地悪をしたい気になった。
「知っていてどうして黙っていたの?」
「それは、こんなことは知らずに済んだほうがいいだろう? 結婚前には話をするって健さんも云っていたし」
「気を使ってくれたの?」
悠は云いにくそうに顔をしかめた。
万智子はついに笑い出した。
「もう、いいわ」
「本当に?」
万智子はきっぱり頷いた。
「頭を下げていただくことなんてないんです。健さん。婚約もまだなんですから」
悠は涼しい顔で云った。この顔は前に見たことある。なにか考えている、という万智子の直感は当たった。
「僕が真田家に入ることになりましたので、万智子さんは連れて帰ります」
この一言で思考は止まった。
すぐにはどういう意味だか理解できなかった。だが、呆然としながらも、目の前に差し出された手の上に、万智子は自らの右手をのせていた。
悠が先にたち、万智子を引っ張るようにして立たせる。
健の声が追いかけた。
「万智子ちゃん?」
さすがに足が止まった。このまま悠についていけば、健との婚約は断るということになる。長年の片思いがこんなかたちで終わってしまうのだ。そう思ったとき、ぽかんと何かが弾けた。
ふと、握られていた手がするりと離れた。
悠の眼がじっと見つめ返していた。
どうする? と訊いていた。
選ぶのは万智子自身だ、と。
万智子は振り返ると、健の方へ笑って見せた。よく練習したとびきりの笑顔が自然と浮かんで、消えた。涙がぼんやり浮かんだが、こぼしはしなかった。
そして、しっかりと悠の手をつかんだ。
確かにわたしは見栄っ張りだ。
「帰ります。さようなら」
視線を前に戻す時、壮介氏と目があった。
「万智子さん、また」
万智子はそれには礼をした。待っていた悠も同じく頭を下げた。
悠はドアの向こうで耳を欹てていた連中に向かって、わざと勢いよくそれを開けた。
現れたふたり、悠が万智子の手を引く姿にどよめきがおきた。
「まあ、悠さん? 万智子さん? どちらにいかれるの?」
健の母の甲高い声が聴こえたが、悠は歩みを止めない。万智子は振り返って、人の中に父の姿を見つけた。だが、目の端に流れた父の顔は万智子のよく知る顔をしていた。
悠は面倒くさそうに人垣を掻き分けて、万智子に道をあける。
「うるさいな、走れる?」
万智子は頷いた。悠は手を握りなおすと、ぐんぐんその間を縫っていった。着物の裾が走りにくかったが、自分たちを人が振り返っていくのは意外にも爽快だった。「何度か酒の席で会っただけなんですが、しつこく付きまとわれてしまって、困っていたんです」
どういうことだかはすぐにわかった。
こんなことはよくあることだ。桐島家ほどの家ならひとつやふたつあっておかしくない。そう思わなければ、嫁になどいけない。
健兄さまにとっては遊びだったかもしれない。
でもあの若い芸者のひとは?
こんな席まで追いかけてくるということはただならぬ関係なのかも。
こんなときでも全甲の頭は冷静に分析することができてしまう。胸はどんどん冷たくなっていくが、頭の回転が止まらない。だれか止めて。
「万智子ちゃん、気分の悪い思いをさせてしまってすまない」
健は深く頭を下げた。
万智子は何も云うことができなかった。云うべき言葉が見つからなかった。
そこに、悠が割って入った。