18世紀という時代を通して最大の出来事であったフランス革命を綺羅星のごとく彩った多くの女性たちは華麗に時に激しくその知性と美貌にまかせてどのようにして歴史の表舞台に躍り出たのでしょうか?
あまりにも有名な王妃マリー・アントワネット。そしてその寵愛を利用したポリニャック伯爵夫人。
黒目がちの大きな目に妖精のような可愛らしい顔立ちのポリニャック伯爵夫人。
マリー・アントワネットより7歳年上でした
家運を回復するというもくろみを持って、愛らしい美貌と機転の利くポリニャック伯爵夫人はまだ若いマリー・アントワネットに近づいて取り入り、彼女の寵愛を手にしたポリニャック夫人。
以降夫人はマリー・アントワネットが愛したプチ・トリアノン宮殿に招かれる王妃の数少ないお気に入りの取り巻きの一人となりました。
ポリニャック伯爵夫人は夫のポリニャック伯爵ともども国王夫妻の友人として権勢をほしいままにした。
1782年にジュールは初代ポリニャック公爵に陞爵した。ポリニャック家には年金および下賜金として年間50万リーヴル、後には70万リーヴルもの大金が与えられました
しかしフランス革命が起きると、ポリニャック公爵夫人は国王夫妻を真っ先に見捨てオーストリアに亡命し、後にポリニャック伯爵夫人は、ウィーンにて急死。
フランス革命勃発後もマリー・アントワネットを見捨てなかったが、それが故に投獄されて、九月虐殺の際に暴徒に首を切り落とされた悲劇の女性。
(最期まで忠実だったランバル公妃)
民衆によって 暴徒に首を切り落とされ虐殺されたランバル公妃。
(最期まで忠実だったランバル公妃)
1770年にマリー・アントワネットがオーストリアからフランスに嫁いできたが、同年からランバル公妃はフランス宮廷に仕えるようになった。
(監獄の門まで暴徒に出迎えられるランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ)
民衆によって 暴徒に首を切り落とされ虐殺されたランバル公妃。
その遺体は無残極まりないようすでした。
群集は彼女の遺骸から衣装を剥ぎ取り、身体を切断し、踏みにじった。
ランバル公妃は凌辱撲殺され、その遺体は切り刻まれた。通説では、暴徒と化した民衆はその首を「旗印」として晒し物にし、マリー・アントワネットの牢獄の窓に掲げて見せつけたという。
マリー・アントワネットはランバル公妃を大変に気に入り、彼女を女官長に任命した。
しかし、次第にポリニャック伯爵夫人にマリー・アントワネットの寵愛が移り始め、ランバル公妃の女官長の地位もポリニャック伯爵夫人に奪われた。
奇しくも、ランバル公妃とポリニャック伯爵夫人とは同じ生年月日でした。
慎ましやかで純粋なランバル公妃は、どれほどマリー・アントワネットに寵愛されようと決して好意につけ入るようなことはしなかった。
ポリニャック伯爵夫人は妖精のような可憐な容姿とは正反対にいつの間にか公爵夫人となり、ポリニャック伯爵夫人は、一族ぐるみでマリー・アントワネットから思いのままに金銭を巻き上げるような女だった。
しかし再びランバル公妃に寵愛が戻り、おそらく宮廷を退いていたと思われる彼女を宮廷に呼び戻している。
1789年フランス革命がが勃発した。ポリニャック公爵夫人は革命が起こると早々にオーストリアへ亡命した。一方ランバル公妃は、イギリスへと渡り、帰国後は危険を承知で王妃のもとへに駆けつけ、自分の部屋を王党派と国王一家との連絡場所として提供しマリー・アントワネットを心から支え尽くしました
また、似たような虐殺が、前後して各地の都市でも起こった。その犠牲者の総計は14000とも16000ともいわれている。