ベイブ・ペイリーには欠点が一つだけありました。彼女は完璧だったということです。それ以外、彼女は完璧でした。ートーマス・カポーティ




ベイブ・ペイリーはニューヨーク社交界の女王であり、小説『ティファニーで朝食を』を書いたトルーマン・カポーティに影響を与えました。





ベイブの入念な身嗜みと細部へのこだわりは賞賛と羨望のまとであり14回ベストドレッサーに選ばれ、1958年には国際ベストドレッサーの殿堂入りを果たしました。






ベイブはマンハッタンの『白鳥』と呼ばれ、美しく、裕福で、そしてとても不幸でした。






ベイブ・ペイリーは1915年、バーバラ・カッシングとしてアメリカに生まれました。

父親はハーバード大学、イェール大学て教授職を務めた著名な脳神経外科でした。





とても裕福な一家でしたが母は娘たちにさらなる上昇婚をすることを要求し、姉メアリー・カッシングは名門アスター家に嫁ぎ、もう1人の姉ベッツィー・カッシングはルーズベルト大統領の息子と結婚しました。





美しいクッシング家の姉妹は゛ファビュラス・クッシング・シスターズ〟と呼ばれていました。



(カッシング姉妹)


ベイブは1934年にボストンで社交界デビューを果たしまた。この時期は世界恐慌とも重なりましたがベイブのデビューはとても注目されました。






しかしベイブが19歳の時、ロングアイランドでの社交パーティから車で帰宅する途中にひどい交通事故にあい、顔を損傷するという不幸にあいます。


父親が推薦した外科医の手術を受けて入れ歯となってしまいましたがこのことがベイブの笑顔を更に美しくしたようです。






1939年にベイブは雑誌、『ヴォーグ』でファッションエディターとして働き始めました。



(ベイブは様々なスタイルを流行らせますがその一つのパンツルック乙女のトキメキ


そして1940年に石油相続人でニューヨークの名家の一員である、スタンリー・グラフトン・モーティマー・ジュニアと出会い、25歳で結婚しました。





当時女性は朝食時でも華やかにドレスアップしていました。特に第二次世界大戦が終わるとボリュームのあるジュエリーが流行り始めました。

ベイブはいつも老舗高級デパート、バーグドルフグッドマンの顧客であり、いつもキロ単位のフェラガモの靴を購入し、7月でもエレガントな手袋をしていたそうです。



(夫、スタンリー・グラフトン・モーティマー)


またベイブは見た目がエレガントなだけでなく、女王のように話し、決して声を荒げることがなく、料理人や家政婦を褒めることを忘れていませんでした。





ベイブはトニーという息子とアマンダという娘を出産しますが結婚生活は上手くいかず、1946年に離婚し、和解金を手に入れました。





ベイブは社会的地位を追求する一方で、とてつもない贅沢な生活をするため夫の富に頼っていました





ベイブは1947年32歳の時ラジオネットワークの可能性に目をつけ、放送のパイオニアとしてラジオネットワークで大成功をおさめた45歳のウィリアム・ペイリーと再婚しました。






裕福で教養もある夫ウィリアムでしたが生涯悪名高い女たらしで数人の女性と付き合うことを常に楽しんでいました。






夫ウィリアムは抜け目ない男であり、ユダヤ人でありウクライナから移民でもあったためニューヨーク社交界の女王として、プロテンスタント系アメリカ人だったベイブとの結婚を決意しました。





さらに夫、ウィリアムは支配的な男でベイブをコントロールしようとする一方で浮気をしていました。

さらにベイブと夫ウィリアムは夫の拒否により10年間ベッドを共にしていませんでした。





夫の不倫はベイブに深い傷を与え、自分が男性にとって魅力的ではないと思い込んでいき、不幸な結婚生活に病み、手首を切ったり睡眠薬を飲んだりして自殺を何度も試みるようになりました。






ベイブの結婚生活が崩壊するにつれ、ベイブは前夫との娘、アマンダに嫉妬していきました。

美人に成長したアマンダを自身の競争相手とみなすようになっていきました。


ベイブは生涯を通じてひどい片頭痛に悩まされていたため強力な精神安定剤を飲み始めました。





ベイブは夫ウィリアムとの間にケイトという娘とビリーという息子がいましたが、娘ケイトは両親の不仲に5歳にして脱毛症を患い、髪がすべて抜け落ちてしまいました。娘ケイトは死の床にあっても母親に会うのを拒否していました。


ベイブは長年の闘病の末、1978年に肺がんのため63歳で死去しました。




当時の多くの女性同様、ベイブ・ペイリーは喫煙者でした。ニューヨーク社交界の女王であり続けることはひとつのプレッシャーであったそうで、毎朝何時間もかけて完璧なヘアメイクをしてからでないと人に会いませんでした。一日2箱吸っていてこれが原因で命を縮めてしまいましたが彼女ほど優雅に喫煙する人間はいなかったといいます。




ベイブの型破りなスタイルは多大な影響を与えました。ハンドバッグにスカーフをつけることは何百万人の女性が真似をし、豪華なジュエリーと安い服を組み合わせるミックスコーデやパンツスタイルを流行させました。

ジャクリーン・ケネディもベイブの真似をしていたといいます。






ベイブは1974年に肺がんと診断されてから自身の葬儀を昼食のメニューやワインの選択にいたるで計画し、ベイブのジュエリーコレクションは色とりどりの紙で包み割り当てました。


ベイブ・ペイリーは死後もファッションとスタイルのアイコンであり、今でも多くのファッションデザイナーがベイブのスタイルを参考にしており、名作『ティファニーで朝食を』の主人公ホリーのモデルのひとりです。









(ベイブが流行らせたバックとスカーフの組み合わせうさぎラブラブ