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xxx死に逝く思想に風鈴の音xxx

戒の思想、独白、そして日常。

両親が訪ねてきて、
一緒に深大寺まで行く事になった。

ただの寺だと思ったら、まさかまさか。
太宰府みたいに…といったら言い過ぎだけれど
結構な観光地化された場所で、
植物園も併設されてる素敵なところだったよ。

そうそう、いろんな所に
「財浄」の文字が入った
賽銭箱があったのだけれど、あれが仮に
「ざいじょう」と読むのであれば
「罪状」にかけた皮肉だろう、
というジョークを思いついた。

用事があって先に戻ったけど、
今度は植物園をゆっくり散歩したい。





可愛いサボテンが売っていたので
手にいれてきました。
どうやら花も咲くらしいので
春に向けて育ててみようと思います。
最近友人に進めた本について、
かつてどっかのブログに
感想を書いたことがあったなと思い
探してみた。

過去のブログなんて
なかなか読み返さないけれど
時々読むと、今よりもちゃんと
頭使えてたんじゃないか?
とすら思う(笑)

無事発見したため、以下移植。


パウロ・コエーリョによる三部作の完結編。
と言っても物語はそれぞれ完結して独立しているのだが。
つまり、三作目。

レポートの資料になるかと思い読み始めた。
すぐに思惑とは違っていた事に気付いたが
内容がおもしろくてついつい読み進めてしまった。

とても哲学的な本だった。

完結で、分かりやすい物語の中に
見事に宗教思想が盛り込まれている。
その中には性善説・性悪説との葛藤が
ひしめいていた。

神は、悪なのか善なのか。

もちろん絶対的に善であるというのが通説だ。
しかし、それでは何故人は罪を犯し、
また善良である人間の下にも
災いは降り注ぐのか。
これが物語の最大のテーマだ。

物語で人は2種類に分類されている。
罪を犯す人と、犯さない人。
つまり、人は元来悪人である、
という考えと善人である、と言う考えだ。
ここでは民族と、
そして宗教が混ざり合う地
ピレネー山脈周辺をモデルとして
人々の思想が実にユニークに描かれている。
物語の中で、罪を犯す人は「告白の日」を
用いて精神の救済を求める。
通常 懺悔が想定されるこのシーンで、
混合宗教ゆえのユニークな方法が用いられる。

「私は神に対し不誠実であった。
しかしあなたも私に対し不誠実だった。
あなたは私の罪を許し、
そして私はあなたの罪を許そう。」
というのだ。

神が私をそうさせたのだと主張することで
お互いの関係を対等と位置づけ
互いの救済を求めるやり方である。

「人間は潜在的に罪深い存在である。
状況が許せば、悪は簡単に人間を唆す。」
として始まったこの葛藤はしかし、
聖人の在り方を見直すことで終着する。

ここに出てくる善良な人々は結局、
悪に唆され犯罪を犯そうと決意する。
殺人と言う罪を。

それも、誰もが自分自身が罪を
背負いたくないという思いから
自分がやったのではないと
思い込める方法を選んだのだ。
(この方法には感心した。
詳しくは実際に本を読んでほしい。)

しかし罪を犯そうとしたまさにその時、
一人の少女の言葉によって
かれらは踏みとどまる。
その少女すらも、頭の中では
数知れぬ罪を犯してきた人物である。
そして犯したいと望んでいるにも拘らず、
それを止める役割を担うのだ。

つまり世の中の人々は善人と悪人に
分けられるわけではない。
性善説も性悪説も間違っているのだ。
人を善人と悪人に分けるものはただ一つ。
「選択」であるとこの本は説く。

それが恐怖による抑制であろうと、
信仰から来る理由だろうと、
その理由に優劣など無い。
結局は選ぶのは自分なのだ。

聖人には絶世の美女がただの女に
見えるわけではない。
金が石に見えるわけでもない。
悪人と同じように、
それらをありのままに見ながら、
彼らは自分を御することが出来るのだ。

結論だけ聞いてしまうと
チープに聞こえるかもしれない。
しかしここに持っていくまでの
論法が素晴らしい。
哲学的な本が好きな方には
是非オススメしたい話である。