こんにちは
ブログにご訪問いただきありがとうございます。
UMIで心の勉強修行中の、かほ です。
このブログでは、娘が不登校になりとにかく不安でたまらなかった私が、
だんだんと安心感を感じられるようになって、
我が家に笑顔が戻ってきた理由をお伝えしていきたいな、と思っているので、
不登校の経緯を少しずつ書いていきますね
今日はその1回目。娘が不登校になる前の様子から...
約2年前へ、ひとっとび!
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当時、娘は小学3年生。
わりと普通の子でしたが、小さい頃から、感触とか人の気持ちに敏感なところがあり、感情の起伏も激しく、
どちらかというと育てづらい子どもだと感じていました。
娘が幼稚園くらいの時に、
「HSC(ひといちばい敏感な子)」という概念を知り、
まさに娘のことだなぁと感じたので、
できるだけ彼女の敏感さを受け止めるような子育てをしようと頑張ってきました。
幼稚園は、行き渋ることはなく楽しく通っていましたが、
お泊り保育では、オネショを心配して何度もトイレに行くなど、不安を感じやすい子ではありましたね~
学校も、休むこともなく元気に通っていて、習い事は音楽と語学の2種類に通っていました。
当時私は、娘のことを
「HSCで怖がりな子だと思っていたけれど、小学生になって色々なことにチャレンジできるようになったなぁ。
私の心配をよそに、たくましく成長していたんだなぁ。」
と、誇らしく思っていました。
人間は、見たいものしか見えない
って、よく言われますが、当時の自分はまさにそんな感じだったのかなぁ、と思います。
「敏感で、人見知りで怖がりの娘を、なんとか社会に出ていけるよう たくましく育てなければ!」
という、私の中にある強迫観念にも近い気持ちから、常に娘にチャレンジすることを期待し、
圧力をかけて頑張らせてしまっていたのだと思います。
もちろん、私にそんな自覚はありません。
当時の私の意識では、
「HSCの娘の気持ちに寄り添いつつ、新しいことにチャレンジさせて自信をつけさせなきゃ」
を目標に、全力で取り組んでいた、つもりでした
習い事も、表面的には本人がやりたいと言ったからやらせた、ということにしていましたが、
その実態は、
「もちろんやりたいよね。絶対やったほうがいいよ」
というオーラ全開で、体験レッスンに連れて行き、娘から「やりたい」を引き出していました。
もちろん、無自覚に、です。
ここが、人の心の奥深いところですよね。
そうまでして、娘を自分の思ったようにコントロールしたかった自分。
そうせざるを得ない自分がいたんだなぁと思います。
そんなわけで、3年生の2学期。
娘は、習い事に宿題に、と毎日忙しい日々を送っていました。
私は、というと、週3回パートに行き、趣味の音楽も続けながら、
忙しくも充実した日々を過ごしていました。
ただ、時間に追われていて、毎日やるべきことをキッチリやらないと気がすまなかったので、
とても疲れていたのも事実。
夜は子どもたちを早く寝かさなければならないと思っていたので、
毎日娘に「宿題終わったの?」「歯は磨いたの?」「早くしないと間に合わないじゃん!」
とまくし立てていました
そして、全員ベッドにたどり着くと、大きなため息をついて、
「私が言わないと、誰もなんにもやらないんだから~」
と文句を言っていました。
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わーお
こうして振り返ると、我ながら見事なまでの過干渉・コントロールの子育てをしていたなぁと思います。
表面上は、「あなたが選んでいいんだよ」 「あなたのペースでいいんだよ」 という言葉かけをしていましたが、
私の「いい子に育てなければ」 「たくましく育てなければ」 というマイナスな意識からの言動だったのだと、今なら分かります。
でも、当時はそんなこと、考えもしなかった。
私なりに、ベストと思う子育てをしていたんです。
敏感で、お母さんのことが大好きで、優しい娘は、
そんな私の期待に答えて、とってもよくやってくれたと思います
苦しさもあったけれど、娘が頑張ってくれたおかげで、
母親としてとても嬉しい瞬間や、素晴らしい景色を見ることができた、
そんな我が家の不登校前の日常でした。
今日も、最後までお読みいただき、ありがとうございます
不登校の経緯シリーズは、今後もちょこちょこ続けて書いていきますね~