(鮎籠3段組内2段網代編)2代目籠寅の最高傑作のひとつ

前節からの続き、

その夜は警官に連れられて行き、翌日、早速大ぜいの人にまじって歩いた。どっちが東か西かわからないが、その人たちの群れの中に入っていれば、とにかく浜松へ行けるだろうと思って、一生懸命はぐれないようについていったが、夜になり朝になり、また夜になるうちに次第に群れの人数はだんだん少なくなって、遂に私は国府津へ行くのだという二人と二人きりになってしまった。途中ではいろいろと恐ろしいこともつらいこともたくさんあった。足が痛くなったこともあったが、我慢してみんなに遅れぬようについて歩いた。そして三日目の夜、はじめて家の中でねたことをおぼえている。朝になってその家の人がにぎりめしをたくさん呉れた。そして私一人を連れて広い街道まで出てから「この道をまっすぐに西へ行きなさい。かわいそうだがこれからは一人で浜松まで帰るんだよ。」と言ってくれた。私は仕方なくその人と別れて一人で歩きだした。

 

すると、よく見ると歩いているのは私一人だけではなかった。後になり先になり、いろいろな人が歩いている。 だれも無口で歩いているが、聞いてみるとほとんどが地震で恐ろしくて逃げて来たのだと言った。私は気強くなって歩いた。高い山道も田んぼや畠のある村の道、家の立ち並んでいる道も、ただ歩いた。昔、関所があったという箱根の山道も歩いた。お蔭のことで町や村の人はやさしくはげましてくれた。家の中でねたことはなかった が、食べ物は人々から戴くことができた。一日に一銭のミカン水を、一度ぐらいは飲めたようなおぼえがある。

 

そうして幾日目かに三島に着いた。今、思い出すと三島大社である。人が集っていたので立ち寄って聞いてみると、沼津から汽車が出るということだ。私は早速みんなと一緒になって沼津まで急いで歩いた。なる程、沼津の駅には地震で避難して来た人達を乗せて運ぶ汽車があった。私は大ぜいの人にまじって、汽車に乗ることがで きた。汽車といってもトロッコの箱のような貨物車である。でも良い。これでようやく浜松へ帰れるのだと思った。だが私は、そのときふと思った。子供心に考えたのである。浜松へ帰っても父はどこにいるのだろうか。兄のいる家を私は知らないのだ。然し、とに角浜松まで行けばなんとかなると思ったものである。

 

やがて夕方になって、私たちの乗っている汽車は西へ向って動き出したのであった。途中たくさんの駅へ止まった。そして夜も暗くなってきた。そして浜松へ着いたのは、夜も遅くなってからだった。浜松の駅で大ぜい降りた。駅の出口には夜更けだというのにたくさんの人が集っていて、避難して帰ってくる人を出迎えていた。私はだれも出迎えてはくれなかった。

私は駅前の交番に入っていろいろ話した。一生懸命に話した。私の言うことがわかってくれたおまわりさんに田町にいる叔母さんの家まで連れていってくれと頼んだ。この叔母さんは私の父の妹で服部という染色屋であると話すと、すぐおまわりさんは私を連れて田町の家へ行ってくれたのである。ああよかったと、私はその時はじめて泣いたことをよくおぼえている。

 

私が無事に東京から来たということで、名古屋にいたという父もとんで来た。家出をして別居していた長兄も来た。その他いろいろの人が集って来た。然し、私の無事を喜んでくれる人はあっても親身になって泣いてくれる人は、田町の小母さんの娘である静枝姉さんと私のいとこの一男兄さんだけだったように感じている。きっと また、余分な厄介者がまた帰って来たと思っているのだろう。

 

父の浜松への帰還は、良く死ななかったと思わせるほど迫真でした。しかし、祖父や家族がとった出迎えは、父にどのように映ったのでしょうか。2011年の東北大震災、その前の神戸の大震災を思い出します。私も東京の文京区で被災し、当時船橋市に住んでいたので「帰宅難民」という苦労をしました。父に比べれば歩いた距離は50キロ足らずでしたが、道路は渋滞していて車は何時間も動かず、ただ多くの人間が列を作って黙々と歩く姿を考えてください。

 

浜松では、祖父は父の学校のことあると言って、当時父が住んでいた名古屋へは連れて行かれないと言い、長兄は生活が苦しいから面倒見れないと言ったようです。そこで田町の叔母さんは、父を自分の家で預ると言って置くことになりました。叔父さんはあまり良い顔をしてはいなかったようです。でも静枝姉さんや叔母さんの願いを聞き入れて、父をを家に置いて元の小学校へ通学できるようにしてくれました。しかし、父は名古屋にいる祖父を懐しく想、その年の正月を迎えるとすぐ名古屋にいる祖父を尋ねて家出をしたのでした。お正月に皆からもらったお年玉をしっかり持って居ったので、思い切った行動に出たのでした。

 

浜松の方では父の家出で大騒ぎだったようです。田町の叔父夫妻や長兄はいろいろと行方を探したらしいがなかなか判らず困ったらしいが、ふとしたことから私が名古屋の父の所に居るということが判ってやって来ました。叔父と長兄は、私の学校のことがあるからと言って再び私を浜松へ連れて帰ることになりました。止むな父は再び浜松に帰って、今度は長兄の家に入るこ とになったのです。