【神指城/本丸編】天下に轟く野望を秘めた≪景勝と兼続≫幻の巨城

2011.05.04 神指城/本丸 大手口付近に建つ城跡幟
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今回は【神指城/二ノ丸編】を経て、本丸へと登城致します。

本丸大手口付近の駐車場脇にある城址説明板から
神指城 (福島県会津若松市神指町本丸)
神指城は、慶長3年(1598)越後から会津へ120万石で移封された上杉景勝が、執政の直江兼続に命じ築かせた日本有数のの規模をもつ平城です。『会津旧事雑考』によると、当初は会津盆地中央とする予定でしたが、平坦で川との落差のない神指ヶ原に定め、慶長5年(1600)3月18日から築城を開始しました。兼続の総指揮により、神指の十三ヶ村を強制的に移住させ、城は北東の鬼門に位置する「高瀬のケヤキ」と北極星を基点に縄張り(設計)しました。領内から12万人を動員し、東山町慶山から石を運び本丸に石垣を築き、町割まで計画しました。しかし家康の上杉討伐令により、6月10日で工事は中止しました。本丸は石垣と堀や三方の門、二ノ丸は四方の土塁と堀が完成しましたが、天守閣には着工できませんでした。
面積は、若松城(鶴ヶ城)の二倍、約55ヘクタールもあり、毛利輝元の広島城に似た「回」字形をした城郭でした。中央の京・大阪・西の広島・東の会津というように、政治経済の中心拠点にしようと川や運河を利用して築こうとしました。慶長6年(1601)に上杉氏は、米沢30万石へと移封となり、城は破城され、更に寛永16年(1639)領主加藤氏が、石垣を総て若松城(鶴ヶ城)に運び去り、神指城は廃城となりました。
会津古城研究会 会長 石田明夫 監修
設置者       神指城を守る会
越後上杉家として、【春日山城】から移封後、謙信公以来の越後の栄華を再びの思いをこの城に託したはず

なのに、時の天下人「徳川家康」の力に屈してしまった「上杉景勝・直江兼続」の幻の巨城です。

※時代背景などの詳細は【若松城/真冬編】【若松城/晩秋編】【若松城/赤瓦編】も併せてご覧下さい。


城郭概略図です。
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本丸大手口付近にある現地城郭図からです。
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神指城の城郭遊歩道案内図です。
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現在の駐車場付近に大手口があり駐車場は内堀跡です。
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大手口付近です。
※ ここから本丸へは観光目的では入れないようです。源さんは観光客ではなく山城探検隊でござる。
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石垣跡
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現地説明板より
神指城穴太積み石垣跡
織田信長の安土城石垣を築いた穴太衆が考案し江戸時代に技術が完成した、耐久力に優れた独特の石垣。普通野面積みともいわれるが裏込め石を大量に詰める為、正式には「穴太積み石垣」と云う。今、皆さんが立っている足元の土を掘れば、沢山の裏込め石が出て来ます。此処の石垣は、約360年前に鶴ヶ城に運ばれ難攻不落の名城の石垣に利用されました。

遊歩道入口です。
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本丸南側土塁と濠址
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二の丸西口付近
※ 写真手前の本丸から向こう側の阿賀川(大川)に運河を作り、塩川を経て阿賀野川(越後平野)へとつながり、諸国と貿易をしようと考えていたようです。
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本丸西口御門付近
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現地説明板より
本丸西御門濠跡
上杉景勝・直江兼続らの築城構想では、この西門濠から小船で大川に漕ぎ出し、塩川の川湊で帆掛け舟に乗り換えて阿賀野川を下り、日本海へと漕ぎ出して諸国と貿易が出来る城郭都市の大構想計画であったと伝えられるが、築城途中で廃城となる。

本丸西側土塁と内堀跡、本丸北西隅には天守予定地があります。
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現地説明板より
大天守予定地
天守閣の大きな土塁の形が見えます。この辺りには石垣の裏に詰めた栗石や残された石垣の大石が遺されています。
神指城を守る会

天守予定地の土塁
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天守予定地にある畑
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天守予定地から本丸郭内
※ 農家の方に許可を得て少し本丸郭内へと入らせて頂きました。郭内は土塁に囲まれ、現在は畑となっています。
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本丸の北側の土塁と内濠跡と本丸北東付近の土塁です。
※ 北東隅付近は土建屋さんの資材置き場か何かになっています。
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大手口付近です。
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グランド脇の城址説明板
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≪ ちょいスタTime ≫

「 神指城 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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《 本丸遊歩道入口付近の現地説明板より 》

【 神指城 】(輪郭式の平城) 総面積 約166.386坪(55ヘクタール)

≪二ノ丸土塁≫
 
東西 五丁二十間(581m) 南北 四丁五十間(526m)
塁址(幅) 九丈(約27m)  高さ 五丈五尺(18.15m)
外濠 幅(広さ) 三十間(約54m) 水深 一丈(約3m)

城門、石垣、四方に門と虎口を築き、橋で渡る。外濠の水は応湖川及び大川(阿賀川)より引き込む。
高瀬の大木(欅・昭和16年国指定天然記念物指定) 樹齢は推定九百年~千年と見られる。
直江兼続は、この欅と北極星で基点を決め、提灯測量で城の縄張り(設計)を決めたと伝えられる。


≪本丸の石垣≫

東西 二丁四十間(290m)  南北 二丁五十間(308m)
塁址(幅) 十間(約18m)   高さ 六丈五尺(約19.5m)
内濠 幅(広さ) 三十間(57.6m) 水深 一丈(約3m)
城門、石垣、東・西・北口に、門と虎口を築き橋で渡る。内濠の水は主に大川(阿賀川)より引き込む。
兼続の構想では、西口門濠から高瀬舟で大川を塩川の川湊に下り、帆掛舟で阿賀野川を下り日本海に出る事が出来る。経済都市120万石の城下町を築き、諸国との貿易を考えたという。


≪築城≫

慶長5年(1600)3月、上杉景勝は執政兼続に神刺(指)ヶ原に、新城と城下町の造営を命じた。兼続は鉄孫左衛門に普請奉行を、大国但馬守実頼に作事奉行を命じ、領内から約8万人の農兵と在郷から約数万人の役夫を集め、延べ12万人で慶山から切り出した大石を三里の石引き道を昼夜兼行で神指城へ運んだという。本丸の石垣積みは、佐竹家・前田家から穴太石垣職人が数百人応援に来たという。二ノ丸は土塁で囲み、本丸は高石垣で四方を囲み、外濠・内濠には大川と応湖川から水に引き込み、本丸石垣の東・西・北口の城門に橋を架けた。


≪廃城≫

同年4月、秀吉亡き後の覇権を狙う徳川家康は、上杉景勝に上洛を迫る。
兼続は主君と協議の上、理路整然と家康の非を衝き、上杉家の義を貫いた『直江状』を送る。直江状に激怒した家康は、朝廷・豊臣秀頼から上杉討伐の論旨を受け、諸侯に激を飛ばして、自ら約6万の上杉討伐の軍勢を率いて、6月16日大阪を出発した。
急報を受けた景勝は築城の工事を中止して、国境の重要拠点、特に白河口などには、防塁・塹壕・砦などを短期間で築き徳川勢の侵攻に備えた。
しかし京の伏見で石田三成が挙兵し、小山に到着した家康は小山評定の結果関ヶ原に軍を反した。白河決戦は幻に終わり、兼続は北の最上・伊達勢との合戦が続いたが、9月、関ヶ原の東軍勝利の報が届き、兼続は苦渋の選択をし「長谷堂城の撤退戦」など、勝ち戦を放棄し上杉軍は兵を引いた。
翌6年、上杉景勝は徳川の臣下に降り、米沢30万石に転封と決まり景勝は神指城を破城して米沢に去った。その後、寛永16年(1643)時の領主加藤明成は、神指城本丸の石垣を総て鶴ヶ城に運び去り、北出丸・西出丸などの拡張をした。その結果、神指城は廃城となった。



神指城へのアクセス地図は、下記をクリックしてみて下さい。  
http://yahoo.jp/Okbpe6