第13回関西総会、第5回兵庫県総会、

県・区代表幹部会(1991年(平成3年)10月16日)での指導です。

池田大作全集より抜粋して掲載します。

 

永遠の指針「創価学会の歴史と確信」


事実と真実――これほど判別のむずかしいものもない。

 


人間の目に映った「事実」が、

必ずしも「真実」を表しているとは限らないからである。

 


「事実」は、ある意味で、だれにでも見える。


 

しかし「真実」は、それを見極める目を磨かなくては、

決して見抜くことはできない。


「事実」といっても、一断面のみ見れば、

「真実」とまったく違った様相を呈する場合もある。

 


また、同じ「事実」を前にしても、

そのとらえ方、見方は、人によって異なる。

 

歪(ゆが)んだ鏡には、すべてが歪んで映る。

 


歪んだ心の人には、一切が歪んで見えてしまう。


物事を見極める眼力――それは、みずからの『 境 涯 』で決まる。


 

「利己主義」「保身」「傲慢」「偽り」の人に、

偉人の真実の生き方は見えない。


 

「謀略」の目には、「誠実」も「真心」も「無私の心」も映らない。

 


まして汚れなき信心の「心」、広宣流布への深き、深き一念を、

理解できるはずもない。

 


ゆえに、いかなる戦いも、断じて勝つことである。

 


他人の境涯の低さを嘆いていても仕方がない。


まずみずからが、勝って、「正義」を明かすことである。

御書に「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(御書237ページ)と。

 

また戸田先生も、この御聖訓を拝して、

「大聖人にほめらるるは、一生の名誉なり」と言われていた。

 

そう肚を決めれば、何ものも恐れることはない。


――「真実」を知るためには、多面的に「事実」を多く知ることも、

その一つの前提となろう。


 

なかでも、その人物が、

「最悪の事態のなかで、何をなしたか」を見極めることが肝要であろう。


「よからんは不思議わるからんは一定とをもへ」(御書1190ページ)


――よくなることは不思議であり、悪くなって当然であると思いなさい――と大聖人は仰せである。

 

人物の真価は、窮地にあってこそ、明らかとなる。


 

(第13回関西総会、第5回兵庫県総会、県・区代表幹部会 

 

1991年(平成3年)10月16日 池田大作全集79巻より抜粋)

          聖教新聞「SEIKYO ONLINE」

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池田先生の指導

 

他人との衝突を避け、悪を見て見ぬふりをする、事なかれ主義。

だれもが皆、この姿勢で、ずるがしこく、

″上手に″立ち回るようになれば、社会はどうなるか。

悪人がどんどんはびこり、善人が迫害される社会になってしまう。

仏法者として、それを放置することはできない――。

 

ゆえに、先生は、「善の戦い」すなわち「悪との戦い」に、

決然と立ち上がられたのである。「悪への挑戦」を開始されたのである。

″悪を見て、放置してはならない″

――これが、真実の仏法の教えだからである。

 

「悪人は結託する」――牧口先生は、こう喝破された。

悪人は何かしら弱みをもっており、孤立していては安心できない。

ゆえに他人と共同し、とくに強者の保護のもとでその身を守ろうとする、と。また共通の敵に当たるために、たやすく結束をする、と。

 

(「悪人は孤立しては安心してはいられないほどに生存上の欠陥をもっているがために、たちまち他人と共同し、ことに強者庇護のもとに在って、

その身を防禦しようとするのである」「犯罪者は何処にあっても、常に戦々兢々として発覚を怖れるがゆえ、共同の敵に当たるためには、容易く結束をなしてそれにともなう窮屈や圧迫を忍ぶ」〈「創価教育学体系」〉)

 

いつの時代も変わらぬ悪の方程式を、牧口先生は見抜かれていた。

現代にも通じる、牧口先生の「哲学」であり、「予見」である。

先生は、まことに不思議な、偉大な方であられた。

しかし、「悪人たちの結託」に対して、善良な人は、

なかなか力を合わせることができない。それはなぜか。

 

「善人は自分に弱味のないので、孤立して対抗力を形成することをしないから圧迫され勝ちである」(「小学校長登用試験制度論」、牧口常三郎全集第八巻)

 

つまり、善人は悪人と違い、自分に弱みがないので、

わざわざ団結しようとしないというのである。その結果、どうなるか。

「強くなってますます善良を迫害する悪人に対し、善人はいつまでも孤立して弱くなっている。一方が膨大すれば、他方はますます畏縮する。社会は険悪とならざるを得ないではないか」(前掲「教育改造論」)

 

結託し、どんどん強くなる悪の力。孤立し、ますます弱くなる善の力。

それでは、社会はすさみ、暗くなる。険悪となっていく。

現代の日本そして世界も、

先生の言葉の通りになってしまったといえないだろうか。

 

こうした悪の結託を打ち破るためには、明確な形として、

「戦う善の力」を連帯させなければならない。

ゆえに牧口先生は、民衆の善なる力の結集を目指して、

「創価教育学会」を創立されたのである。

″理論や理屈だけではだめだ。

現実のうえで、民衆が、正義に連なっていくために、

何ものにも壊されない「善の連帯の組織」「正義の組織」をつくろう″

これが、学会の創立にこめられた、牧口先生、戸田先生の心であられた。

(1994.11.12 創立の日記念・本部幹部会「池田大作全集85」)

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「『松野殿御返事』には、十四の法華経への誹謗、

つまり十四誹謗について記されています。

 

誹謗とは、"そしる"ことですが、そのうちの最後の四つは、

軽善、憎善、嫉善、恨善といって人に対するものです。

御本尊を持つ人を、軽蔑したり、憎んだり、嫉妬したり、

恨んだりすることです。

 

日蓮大聖人は、十四誹謗の罪は極めて重いので、

『恐る可し恐る可し』(御書1382㌻)と、戒められている。

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「松野殿御返事(十四誹謗抄)」日蓮大聖人御書全集 1381

 

在家出家の者をや、此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり」と見へたり、或は「若実若不実」とも説かれたり、

之を以て之を思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり。

 

~通解~

法華経第四の巻の法師品第十には、

「もし在家の身であれ、あるいは出家であれ、

法華経を持ち、説く者に対して、一言でもそしるならば、

その罪報の多いことは、釈迦仏を一劫の間、

面と向かってそしった罪よりも重い罪をうける」と、説かれている。

あるいは普賢菩薩勧発品第二十八に、

「もし事実にしても、あるいは事実でないにしても、

法華経を持つ者の悪口をいえば、その罪は重い」とも説かれている。

 

これらの経文に照らして考え合わせるならば、

かりにも法華経を持つ者を、互いに、そしってはならないのである。

その理由は、法華経を持つ者は、必ず、みな仏なのであって、

仏をそしれば罪をうけるのは、当然だからである。

 

*~*~*~

「法華経第四の巻の法師品第十」

 

「若実若不実」(若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ)

 

若し復(また)是の経典を受持する者を見て其の過悪を出せば若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人現世に白癩(びゃくらい)の病を得ん

 

白癩(びゃくらい)の病とは、釈尊御在世当時、最も恐れられていた疫病(感染症)のこと。比喩。

 

          聖教新聞「SEIKYO ONLINE」

 

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