「梅雨」

              加賀海 士郎

 「弁当忘れても傘忘れるな」北陸人なら誰もが耳にし、口にしたことのある言葉。

雪が降り始め、住んでいる街全体を白い雪が覆い隠す長い冬がやって来ると、垂れ込める鉛色の空の下でじっと根雪の融けるのを待つしか無かった。じたばた騒いでもどうにもならない、いずれ時が来れば野山に緑が戻ってくるのだから、慌てても仕方あるまい。

 

 映画「三丁目の夕陽」に描かれた昭和三十年代の街の景色、茜雲に染まる東京の下町と違って士郎の幼少期の街は、世の中が漸く敗戦のショックを乗り越えパラダイムシフトによる新たな胎動を感じさせた。ひもじさに決別し豊かさの到来を予感させる景色は北陸の下町にも広がっていた。

 昭和三十三年、奇しくもその年小学校六年生だった士郎は、貧乏のどん底から救出されるように、十三歳年上の姉によって養子同然に引き取られ、北陸の街とはまるで正反対の名古屋へ転校することになった。一大転換だ。暗い雪国の街にいた、まるで映画の主人公の淳之介のような貧乏ったれが一転して陽気なあの頭のてっぺんから声が出てくるような「小母さん、ヒャーライトマー一個チョーデヤー」の名古屋の街にやって来たのだ。

 

 名古屋といっても近郊農業が盛んな田舎町、瑞穂区苗代町、・・・中学校の名前が田光中学校、名前を聞いただけで、その田舎ぶりが想像できよう、およそ金沢の下町とは対極の街だ。オート三輪のミゼットが走り回ってはいるが、ポケットにその朝、産みたての生卵を入れて来て、授業中に

 「ワーッ、割れてしまった・・・」と、大騒ぎする馬鹿な悪がきが闊歩しているのだから、どう見ても士郎の生まれ育った金沢の街の方が都会だ。古着のような小倉の丈の短いズボンをはいていても金沢弁の方が遥かに優雅でスマートだと思っていた。

 

 香林坊や片町といった繁華街が小学校区だった、地方都市とは言え、小京都とも言われた金沢は士郎にとっては自慢の街なのだ。

 何故、こよなく愛した故郷を士郎が離れることになったかというと、奔放な姉が加賀温泉郷で芸妓をしていたことによるのだ。

 

 当時のことは姉もほとんど口にしなかったが、それは温泉芸者が名古屋から遊びに来ていた旦那に見初められて名古屋で所帯を持ったという、言わば花街の浮いた話のひとつだったのだろう、どこか世間を憚る思いが彼女の胸にあったに違いないと子ども心に想像し、それ以上訊くことはしなかった。

 何しろはじけるような若さがあったし、旦那も三十後半だったが羽振りが好かった。小さいながらも築港の辺りで鉄工所を経営していた。今でいう、内縁関係という奴だろう。

 士郎にとっては、正にパラダイムシフトだった。貧乏のどん底で僅か三百円程の給食費を三ヶ月分も滞納しなければならない生活から解放されて、当時、ようやく普及され始めたテレビ放送が観られるうえ、氷の冷蔵庫には冷たい飲料が欠かさず入っている。

 

 月光仮面だって快傑ハリマオにも会えるんだ。クラスでは余所者だが話題には付いて行ける、それは当時の十三歳の少年にとって、竹馬の友も故里の街も野山も色褪せて、新天地へ脱出することの躊躇いも迷いも捨てさせたのだ。

 

 〽雨、雨ふれふれ母さんが

  蛇の目でお迎え嬉しいな

 自分の傘など端から持たされないし、迎えに来てくれるはずの母は農家へ出稼ぎに行っていた幼少期には、梅雨どきのそんな微笑ましい風景など想像すらできなかった。

 

 皮肉なことに士郎にとっての天国のような生活は、それから二年足らずで風と共に去ってしまう事になった。昭和三十四年、九月二十六日、あの伊勢湾台風が東海地方を直撃し、身を寄せていた頼りの旦那の鉄工所は津波に吞まれる如く水没。まるでポセイドンの怒りに触れたようにパラダイムシフトしたのだ。

 

 僅か二年足らずの伊勢湾台風と共に消え去ったのだが、今また、同じように台風10号が日本列島に襲い掛かろうとしている。まだ二百十日には間があるし、台風の得意日でもないだろうが、士郎の人生のターニングポイントとなった日が近づくと否応なく思い出されてしまう。

 

 結局、人生は成るようになるのであり、成るようにしか成らん。それが自然の摂理なのだ。

そう考えれば今を大切に悔いのない時間を過ごすことだろう。

  

(完)