何のために? 生きること、働くこと
会社の向こうに何を見る?(私の願い)
※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。
筆者紹介(その五)
地震騒ぎも落ち着き始めた一月の終わり頃、彼は改めて工場長に呼ばれ、本社購買部に転出することが正式に決まった旨、告げられたが、もとより覚悟していたので、その場で承諾した。
ひょっとすると系列会社へ左遷されるのかという不安も有ったが、これまでの経験が大なり小なり活かせそうな購買部ということで、内心ほっとしていた。
その後二月に入って早々に、購買担当取締役から士郎に直接電話が入った。
「加賀海君、もう住まいは手当てしたかな?実はお願いが有る。君にはできるだけ早い時機に関東工場へ赴任してもらいたいので、暫くは大阪の単身寮に住んでもらいたいのだが…」と言う声を聴いて、今更、じたばた騒いでも仕様が無いが、関東は予想外だった、しかし、購買部に転出を了解したからには引く訳にはいかないと思いながら、
「電話では何ですから、近々そちらへ伺います。ご都合はいつがよろしいでしょうか?」
と訪問の打合せをしていた。
こうして士郎の新たな旅路が始まった訳である。その後、士郎は信頼できる筋から、自分は左遷されたのではなく、本社部門を補強する為にトップ会談で決められた人事異動だったと言う話を耳にしたが、自分でもヘッドハンティングで本社に行くのだと言い聞かせていたことと、このまま兵庫の田舎にいても先は見えてるし、若い頃、毛嫌いしていた東京へ行ってみるのも面白いかもしれないと思い始めていたので、新たな旅立ちを前にして、人事異動の動機が何であれ、望む所だと思っていた。
思えば入社式の時、定年まで三十六年も有ると、気が遠くなる思いだったが、既に残り時間は十年を切っていたし、今更、何も怖がる必要はない訳だから、新天地で勉強し直してみよう。
新しい場所で新しい人と新しい関係を創って行くのも面白いかもしれない。不安が有るのは、この年になって家族と離れて一人暮らしをしなければならないことだが、人生万事塞翁が馬という事だ。
その後、三ヶ月間、本社購買部でリフレッシュの為の猶予期間を過ごした後、彼は関東工場へ赴任した。本社購買部に何故、三ヶ月間留まったのか士郎には理解できなかったが、その間、門外漢の目で「購買部診断」をして、改革を提言して欲しいとの要請を受けたので、自分でも、これからの購買部の在るべき姿を探りたかったから、願っても無いチャンスと考え、部内外の関係者を対象にアンケート調査を企画実施することにした。
人生とは不思議なもので、あれほど毛嫌いしていた関東暮らしも住めば都で、心細い思いや独り住まいの為の炊事洗濯の苦労などマイナス面もあったが、それ以上に貴重な体験と学習が彼を大きく成長させて行った。
『幸、不幸を分かつのは、己が心の置き場なり。全て天恵と知るべし。』と自分に言い聴かせ、独り暮らしをして改めて、人の世話にならなければ生きては行けない自分を発見していた。
その後、関東暮らしは二年足らずで幕を閉じ、平成九年四月に本社に帰任した士郎は、折りしもスタートした全社業務改革運動に乗じて、長年、疑問に思っていた資材部門の改革運動を企画推進して行ったが、門外漢として本社購買部にやってきた彼を異端視する向きが少なくなく、改革の進展は思うに任せなかった。
もっとも、改革とは言え、現行業務のほとんどを事業部門に移管し、未だ業務スタイルが確立されていない企画管理業務に重点を移そうと言うものだから、部門内の抵抗は或る程度予想していた。
抵抗自体、苦にはならなかったが、周囲の反対を押し切ってまで自分を貫く事に、何の為に苦労するのか?何が自分を駆り立てるのか?士郎の頭の中では、そんな疑問がくるくると走り回っていた。
後書きの後書き
ここに記した『筆者紹介』は士郎の自伝である。
最初は、正に文字通り簡単に筆者の生い立ちを紹介するつもりだったが、書き進む内に徐々に欲張った形で膨らんでしまった。
元々は士郎が何故、独特の価値観を持つに到ったかを理解して頂く為に、どうしても彼の生い立ちを示したかったということだが、彼自身、平凡に思える人生でも、長い人生の中には幾つもの絵になる感動的なシーンがあるものだと痛感させられた訳である。
決して士郎の人生が特別数奇なものであったとは思えない。
むしろどんなに平凡と思われる人にも、幾つかの感動シーンがあり、それを連ねれば見事なまでの人生ドラマになることに気付かされた訳である。
そのドラマがどんなに意義深い価値有るものであるかは、その人自身が決めるものであり、士郎の生い立ちを必要以上につぶさに紹介したのは、全ての人にこれまでの自分の人生ドラマを振り返ると共に、一度しかない、やり直しの利かない人生を大切にして欲しいと訴えたかったからに他ならない。
平成十一年三月吉日
時は移り冬眠から覚めるが如く
この本は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えたものである。当時は一般企業では六十歳定年が大半だった時代だから士郎も定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。
彼は書き終えた本を何とか出版できないものかと、画策してみたが、商業本としては販売見込みは薄く、自費出版するには百万円単位の費用が必要だったので、退職金の一部をつぎ込む覚悟があれば可能なことから慌てずに時機を待つこととしたのだ。
しかし、結局、百万単位のお金をつぎ込んで道楽のように本を出すことは憚られ、原稿のまま眠らせてしまうことになったのだ。その為、本書には購買部門の業務改革の一端を窺わせる記述があるが、その後、士郎が手掛けたドラマチックなKプロジェクトなど、士郎が現役を引退するまでの人生ドラマは触れられていない。
本書内で紹介した『ミッションステートメント(私の願い)』を士郎がとりまとめたのは平成十年十月十日であるが、奇しくも丁度その頃、彼が後に携わる大阪本社工場移転に伴う跡地売却の為の土壌環境調査が進められていた。
彼は購買部長として業務改革を手掛けており、自ら提唱した集中購買を事業部門別の分散購買に転換しICTを活用したサプライチーンマネジメント(S・C・M)構築の促進に励んでいたが、その活動はいわば本社購買部門のリストラクチュアリングでもあった。
従って、購買部の業務改革が一段落すれば購買部長は用済みとなり、その後、士郎は総務・広報部長に任ぜられ、平成十四年五月に「大阪工場跡地の土壌・地下水調査結果及び対策について」記者会見に臨み、初めてテレビカメラの前に立たされることになったのは何とも不思議な縁と言わざるを得ない。
結局、その後、土壌・地下水浄化工事の実行責任者に任ぜられ、自ら掲げたミッションステートメント(私の願い)を否が応でも実践せざるを得なくなったのは大袈裟に言えば天命だったのかもしれない。
今にして思えば、小心で不器用な士郎を見越してそんな舞台をしつらえてくれたというべきかもしれない。
渦中にいた時は言葉では言い尽くせない大変な思いをしたのだが、それはまた望んでも得られない貴重な体験でもあったとあれから二十年経った今だから言えるのだろう。
時は流れ、世の中は技術進歩が格段に進み、随分様変わりしたが、人間そのもの、その本質はほとんど変わっていないようだ。
いま読み返してみても本書の言わんとするところは決して陳腐化した戯言とは思えない。
筆者としては次代に伝えるつもりで、せめて身近に接する子や孫たちに本書を手に取って読んでもらいたいと思う。そして自分自身で考え行動して欲しいと願っている。
平成三十一年 大寒の候(了)