12月31日に子供を連れて兄一家が東京から帰省、
家族でNHK紅白歌合戦を観る。
こんなにがっつりと紅白を観たのなんて、いつぐらいぶりだろうと思う。
特に記憶なし。


元日は母方の親元へ新年の挨拶へ赴く。

従兄弟一家が二組来ていたので、
兄の子供を含めると都合4人の乳幼児がいたことになる。
わーわーきゃーきゃー言いながら乳幼児と戯れる。


3日は京都の八坂神社へ。
朝一でやっていた(はず)の能を観に行くも、間に合わず。
友人と初詣だけして昼飯を食べる。
日本酒が旨かった。

自分専用のぐい呑みを購入する。

兄一家、東京へ帰宅。


5日、特に何もなし。
だらだらと実家で過ごし、
何とはなしに物足りなく感じ、じっとしていられなくなったので、
車を運転して彦根の方へ向かう。

そしてこの物足りなさが何なのか、運転しながら考えてみる。

端的に言って、これは「寂しい」ってやつやろうなと思い当たる。
寂しいと言えば、語弊があるかもしれないんだけど。


年末年始の間、兄夫婦を間近に見ていて、
「ああ。これが、家族が出来上がっていく過程なんだなア」と実感した。

そしてそれは、幼い頃は自分も持っていたものであって、
今の自分やこれからの自分にとっては、未だ持たざるものであることに気が付いた。

そう気付いて、また「寂しい」という物足りなさを感じたわけなのだけど、
この「寂しい」をもっと正確に言い表わせば「懐かしい」なのかもしれない。
「あー今はもう無いわー」みたいな。

兄夫婦の姿は、本当に「懐かし」く感じた。
そうして初めて、自分が「家族」というものから抜け出しつつあるんじゃないかと思った。

「家族」というのは「家族を作り上げる過程」なんじゃないかと思う。
そしてそれは、出来上がっていくにつれ、
子供は大人になり、
誰かが出ていき、
誰かが新しく家族を作り、
誰かが死んだり蒸発したりしながら、
次第に消滅していく。

家族は常に、それが出来上がっていく過程の中にしか存在しなくて、
それは出来上がった瞬間から消滅していくものなんだろうなア、なんて。

だから、家族を一個の出来上がったものとして維持させようとする試み(子供を手放さない親や、その逆など)は、大体家族を壊してしまうんだろうなと思う。


そして自分は今、その消滅の段階にいるのだろうなと、
兄夫婦を見て気付いて、
生まれて初めて「家族が欲しいなア」と思った。

なんせ今まで在る在ると思っていたものが、いつの間にか無くなりかけていることを知っちゃったのだ。
うっかりうっかり。


「これが“家族が欲しい”って気持なのか」と知って、
また初めて、両親が「孫が欲しい」と言う気持を知ることになった。
両親にとって、孫を持つことが、「家族」を延命するための唯一と言っていい手段なのだ。

だけどそれが出来る見込みがなくて、
また僕は悩んじゃうわけだけど。




トマ美ちゃん