「夢の方向に爪先を向けておけ」は上田誠仁(うえだ・まさひと)さんの座右の銘です。 
上田誠仁さんは1959年、香川県善通寺市生まれ。香川県の尽誠学園高から順天堂大に進み、選手として箱根駅伝に3回出場し、2度の総合優勝を経験。卒業後は高校、中学の教員を経て、1985年に山梨学院大の陸上競技部監督に就任。今年正月の大会で28年連続出場となる。優勝は3回。次男の健太さん(山梨学院大付高3年)は今年の全国高校総体の陸上男子5000メートルで7位に入賞した。
                                 (上田誠仁さん) 
イメージ 1新たな挑戦  背中押した父
 
30年たった今でも、父の親司(ちかし)さんの言葉を思い出すと、背筋がピンと伸びる。駅伝の強豪・順天堂大を卒業して3年目、24歳の冬。新たな挑戦を前にためらう自分の背中を父が押してくれた。
 香川県で生まれ、中学時代から長距離選手として活躍した。父子家庭に育ち、決して裕福ではなかったが、希望した順大に進むことが出来た。箱根駅伝では山登りのスペシャリストとして、往路の最終区、5区を3度走り、2度の区間賞を獲得するなど、2度の総合優勝に貢献した。
 卒業後、体育の教員となり、実家で病気がちの父と暮らしていたある日、転機が訪れた。山梨学院大が箱根駅伝を目指し、陸上部を強化する方針だと聞いた。「監督に推したい」と、順大時代の監督から言われた。挑戦したかった。だが、新興校が割って入れるほど、甘い世界ではないことも知っていた。何より、父を残して山梨に行くことにためらいがあった。迷いを見透かされたのかもしれない。ふだんは無口な父から「酒でも飲もうや」と誘われた。その時に言われた。「泥水に顔を突っ込むようなことがあっても、夢の方向に爪先を向けておけよ」。進む道が、見えた。
 1985年、山梨学院大の陸上競技部監督に就任した。雪が残る富士山を見上げながら思った。「あの空の向こうに、箱根があるのか」。空と故郷の瀬戸内海をイメージし、ユニホームの色を青にした。

 92年に初の総合優勝を果たすと、94年から2連覇した。一方で、選手には「頑張っても、全員は箱根を走れない。それでも、やり抜く覚悟はあるか」と問うてきた。ある年、箱根駅伝の本番の直前で、4年生をメンバーから外した。翌朝、その選手が落ち込むそぶりも見せず、練習に取り組む姿を見た。声を掛けると「僕の箱根は終わりましたけど、僕たちの箱根は、まだ終わっていません」と返された。教え子の一言に、駅伝のすばらしさを教えられた。
 外国人留学生を起用し、批判にさらされたこともあった。でも、ジョセフ・オツオリさん(2006年に37歳で死去)のように、誰よりも早くグラウンドに来て、仲間の信頼を得た選手もいる。どんな選手にも「競技力だけではなく、大切なものがある」と信じている。
 父は、19年前に亡くなったが、贈られた言葉は今も「心を支える柱になっている」。また箱根の季節がやってきた。「本当の家族のよう」に感じている選手たちを率いて、正月の戦いに挑む。
 
(読売新聞「言葉のアルバム」20131220日)
 
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