努力に勝る天才なし」は橋本聖子(はしもと・せいこ)さんの座右の銘です。 
橋本聖子さんは1964年、北海道生まれ。83年、駒大苫小牧高卒。92年アルベールビル冬季五輪でスピードスケート1500メートル3位となり、冬季五輪で女子として初のメダルを獲得した。冬季五輪に4回出場し、夏季五輪にも自転車競技で3回出場。95年の参院選に自民党から立候補して当選し、現在4期目。2000年に、現職参院議員では初めて出産した。趣味は陶芸と乗馬。
                                                         (橋本聖子さん)
イメージ 1決して悔いは残らない
 
「必ず五輪選手になる」――。
 幼い時から、そう思い続けてきた。1964年の東京五輪開催5日前の10月5日に生まれ、五輪選手に育ってほしいと願う父に、「聖子」と名づけられた。
 実家は牧場。北海道早来(はやきた)町(現・安平(あびら)町)で、祖父の代から営まれ、敷地は隣家まで1キロ離れているほど広い。冬には1周約200メートルの池が凍りつき、天然のスケートリンクができた。3歳の頃から、長靴を履いて氷の上をくるくる回って遊ぶようになった。小学1年生だった72年には札幌五輪が開かれ、学校のテレビでスピードスケートを観戦し、「これで五輪を目指そう」と決めた。
 だが小学3年生の時患った腎臓病が、その後の選手人生を苦しめることになる。運動を2年間、医師に禁じられ、運動会にも出ることができないままだった。そしてサラエボ五輪(84年)を翌年に控えた19歳の時、再発。胸の筋肉がまひする呼吸筋不全症、B型肝炎も併発した。五輪選手の選考前に入院を強いられた。
 くじけそうになる自分を支えてきたのが、父親に言われた「努力に勝る天才なし」という言葉だった。父も祖父から同じ言葉を聞かされたといい、「どの世界でもしっかり努力を積み重ねていけば、天才以上になっていく」と諭された。北海道の大自然の脅威を乗り越え、切り開いてきた父親たちの身体からにじみ出た言葉だ。

 スピードスケートは、積み重ねが勝負の世界だ。その日に良い結果が出ても、努力しなければすぐ、元に戻ってしまう。いつまた暴れ出すか分からない病気と共生し、練習をしたくても、病気でできない時期が長かった。それだけに、父の言葉をかみしめながら五輪を目指して苦しい練習を続けた。すると、努力して成長することは喜びにつながると気づいた。
 政治家になった今も、この言葉は生き続けている。95年の参院選で初当選したが、五輪選手の知名度で当選できたという思いがある。すぐに政治家として通用するわけがない。コツコツと努力を積み重ね、政治家として力をつけなければ、いずれは有権者からも見放されてしまうだろう。

 2020年、再び東京五輪が開かれる。五輪選手を目指す子供たちにもぜひ、努力を積み重ねてほしい。頑張るだけではなし得ないこともある。だが、精いっぱい努力すれば、目標を達成できなくても悔いは残らないはずだから。
 
(読売新聞「言葉のアルバム」20131115日)
 
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