『一生一打』と『これほどの努力を人は運と言う』は張本 勲(はりもと・いさお)さんの座右の銘です。この言葉は10月28日に亡くなった「打撃の神様」と称された川上哲治さんにもらった言葉だそうです。そのいきさつが本文の最後に書かれています。
 
張本 勲さんは1940年、広島市生まれ。浪華(なにわ)商業高(現大阪体育大浪商高)から東映フライヤーズ入り。巨人を経てロッテに。首位打者を7回、年間打率3割以上を16回記録して安打製造機と呼ばれ、日本プロ野球史上唯一の3000本安打を達成した。
                                           (張本 勲さん)
イメージ 1指失った右手 激痛こらえて守備
 
父は1939年、母と兄、2人の姉を連れ、韓国の慶尚南道の寒村から広島にやって来ました。古道具屋のような商売をしていた叔父に誘われたのです。私が生まれたのは、その翌年。父は韓国に一時帰国した際、太刀魚の骨が食道に刺さって亡くなったそうです。日本に来て数年経った頃ですが、母は言葉も字も分からない。苦労したでしょう。広島市にある比治山のふもとのバラックに住んでいました。
朝、玄関の戸を開けた途端に、ピカ、ドーン。母が覆いかぶさって守ってくれた。家は爆心地から約2・5キロですが、比治山の陰で助かった。町には絶叫する人、どぶ川に飛びこむ人、そして人の肉の焼ける臭い。地獄絵でした。 当時11歳だった上の姉は勤労奉仕か何かで出かけていた。1、2日後に担架で帰ってきましたが、全身ひどいやけどで。背が高くて色白の自慢の姉だったのですが。生きていられたのは1晩か2晩か。終戦後、母はトタン屋根に6畳間と3畳分の土間があるバラックを借りました。家の前に置いたリンゴ箱に白い布をかけ、ホルモン焼きの店を始めました。
もともと水泳が好きでしたが、中学に水泳部がなかったので野球部に入りました。1年の時、友達と広島―巨人戦を観戦した後、選手の宿舎までついて行った。塀によじ登って中をのぞいたら、食事は大きなステーキと銀シャリ。なぜか、たくさんお札を持っているのも見えました。プロ野球の選手になりたいと思いましたね。
 それから猛練習に励みました。兄がタクシーの運転手をしていたので、古いタイヤをもらってきてもらい、それをペッタンペッタンと毎日バットでたたいた。「また勲ちゃんの餅つきが始まった」と近所で評判でした。
他校の生徒とよくけんかしました。野球部が強い広島商業高校を受験してダメだったのも、そのせいだと思います。その時、松本商業高校(現瀬戸内高)の監督が「来ないか」と誘ってくれて。最初は夜間でしたが、1学期にけんかしなければ全日制に移れる約束でした。昼は学校の食堂でそばやうどんを作り、それから野球部で練習し、夜は授業を受けました。でも野球部は弱くて、甲子園の地方大会は1回戦負けでした。
ある時、散髪屋にあった雑誌で「浪華(なにわ)商」「常勝」「甲子園」という文字が躍る記事を読み、浪華商に行かせてくれと兄に泣きついた。兄が松本商業の監督に相談したら、「あの子は化ける。行かせてやって欲しい」と。それで転校することになりました。フランク永井さんに「13800円」という歌がありますが、当時の大卒初任給がこのくらい。兄はめいっぱい働いて月給2万円を稼ぎ、その中から1万円を仕送りしてくれました。心から感謝しています。
3085安打という私の日本記録にイチロー選手が並んだ時、アメリカへ試合を見に行ったら、イチロー選手が私の記録を上回った日、アナウンスと共に球場の画面が観戦中の私の姿と名前を映し、観客が立ち上がって拍手を送りました。3千本打った選手が来ていると敬意を示してくれたようです。アメリカのそんな素晴らしい一面は認めますが、日本の選手の引き抜きには反対です。他にも日本のプロ野球を憂えていることがありますし、私たちの世代が発言していかないと。テレビでは、なるべくそんな話もしたいのです。
 23年間、プロとしてプレーしました。でも、もう一度若い頃に戻ったのなら、実は二度と野球選手にはなりたくないのです。
4歳の時、たき火に右手から落ちる事故に遭い、薬指と小指の3分の2を失い、親指と人さし指、中指が内側に曲がった。右手だとわしづかみにしかボールがつかめず、遠くへ投げられない。練習して左投げに変えました。
 つらかったのは守備です。普通のグラブなら捕球できるツボが5、6カ所ある。でも、私は自分の手に合う特殊なグラブを作ってもらったので、ツボが1カ所しかない。球がイレギュラーすると捕れず、胸で止めていました。
捕球した際の衝撃で、折れたかと思うほどグラブの中の指が痛むこともあって。寒い時期は何分間もしびれて感覚がない。またすぐに球が飛んで来たら捕れないので、靴ひもがほどけたふりをしてタイムをかけました。審判から「早くせんか」と言われましたが、痛みが引くのを待ちました。
 右手は妻にも娘にも見せません。1人だけ、巨人の監督だった川上哲治さんに見せたことがあります。引退後に食事をした時、「こういう手で頑張ったんです」と言ったら、「お前、よくそんな手で」と涙ぐんでくれました。
 
(読売新聞「人生の贈りもの」2013108日)
 
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